2009/10/17

Think global. Act local.

『日本のヒップホップ ― 文化グローバリゼーションの〈現場〉』
 イアン・コンドリー 著 上野 俊哉 監訳 田中 東子・山本 敦久 訳
(NTT 出版) ★★★☆☆ Link(s): Amazon.co.jp / Rakuten Books

MIT の准教授であるアメリカ人の著者が、日本のヒップ・ホップについて綴った日本文化論。著者は 1995 〜 1997 年(つまり、EAST END x YURI と『今夜はブギー・バック』直後であり、『さんピン CAMP』と「大 LB まつり」が行われた時期ってこと)に日本に滞在し、その後も頻繁に日本を訪れて、レコーディング・スタジオやクラブなどに足繁く通い、インタヴューを行い、それを基に、あくまでもアメリカ人の客観的な目線で考察してる、という内容。もともとは 1999 年に博士号申請論文として書かれたモノで、それをベースに修正・加筆された英語版 "Hip-hop Japan: Rap and the Paths of Cultural Globalization"(Link: Amzn)が 2006 年に出版された。この『日本のヒップホップ』はその訳書で、発売されたのは今年の春頃だったかな? 発売時から気にはなってたんで、ちょっと楽しみにしながら読んでみた、と。

まぁ、先に感想をザックリと言っちゃうと、「新鮮な驚き」と「違和感」と「共感」がそれぞれ 1/3 ずつって感じかな。特に、1995 〜 1997 年と、それ以降の時期っていうと、個人的にも、公私ともに(まだ「私」が多かったかな)日本のヒップ・ホップ・シーンにけっこう足を踏み入れてた時期なんで(それこそ、著者と何度もニアミスしてるはず)、わりとリアリティがあるっていうか、実感を持って読めちゃう時期のドキュメントって感じでもあったりするんで、だからこそ、よけいにそう感じちゃうのかもしれないけど。3 つの面、どちらに関しても。

「新鮮な驚き」ってのは、「へぇ、そんな風に見えるんだぁ」って側面。単純に、外から、ヒップ・ホップ・の母国で生まれた人間の目・耳には、文化論を研究してる人間の目・耳には、「こんな風に見える・聞こえるんだぁ」って、けっこう素直に新鮮だったりする部分。その中に足を踏み入れてる日本人にだからこそ、気付きにくいことも多いんで。外から見ないと気付きにくいことってけっこうあるし、実は結構重要だったりするし。例えば、キューティズモのハナシとか、個人的にはけっこう面白かったりして。

そして、そこには、同時に、「へぇ、そこがツボか!?」みたいな部分があったりもする。それが「違和感」にもつながるんだけど。インパクトというか、重要度というか、そういうポイントみたいなモノがけっこう違ってる感じがして。ブッチャけた言い方をすると、それほど大したトピックじゃないことを、まるで日本のヒップ・ホップを象徴する出来事であるかのように取り上げてるように思える部分がけっこうあったり。まぁ、もちろん、著者自身はそう考えたからそういう取り上げ方をしたんだろうけど、正直言うと、ちょっと違和感というか、ズレみたいなモノは感じるかな。「もっと他に取り上げるトピックがあっただろ?」とか思ったりもするし。

そうは言っても、別に全篇的外れって意味では全然なくて、「共感」を抱く部分もたくさんある。やっぱり、同じヒップ・ホップを愛する者同士のシンパシーというか、同じグルーヴ感というか、暗黙のコンセンサスみたいなモノはもちろん感じられる(つまり、ライムスターの『B-BOY イズム』が言うところの「イビツに歪むオレイズムのイビツこそ自らと気付く」部分ってこと。『B-BOY イズム』に関しては、これとこれがヤバイ)。それが、著者も文中で何度も触れてるけど、ヒップ・ホップっていうカルチャーの持つグローバルな力、文化のグローバリゼーション的な力、著者の言葉を借りれば「ディズニーやマクドナルドとは違う、下からのグローバリゼーション」ってことになるんだと思うけど。そして、そこには、同時に、すごくローカルな側面もある、と。それを突き詰めると、奇しくも著者が、日本のアーティストたちがインタヴュー等で異口同音に使う、日本のヒップ・ホップ・シーンを象徴する言葉として興味を持ち、タイトルにまで使ってる「現場」って言葉につながってる部分だと思うんだけど。まぁ、インターネットの時代ではあっても、「現場」に漂う空気感とか、「現場」で生まれるグルーヴ感みたいなモノが本当のダイナミズムを生み出してるんだって事実は何も変わってないんだと思うし、著者もそれに気付いてたからこそ、「現場」にこだわった(原著でも 'genba' って使い方をしてるらしい)んだろうし、だからこそ信頼できる内容になってるんだと思うし。

まぁ、この手の議論は、アメリカ以外のヒップ・ホップ・シーンでは避けられない問題だったりもするし、ヒップ・ホップに限らず、どんな文化にでも常にある問題で、そういうのがあるからこそ面白いって側面が多分にあるわけで。「違い」こそが面白さを生み出す源泉なわけで、「違い」を許容しないグローバリゼーションなんて面白くも何ともないわけで。

そういう意味でも、外国人、それもヒップ・ホップの母国の人間が日本のヒップ・ホップに興味を持って、こういうカタチで研究して、書籍としてヒップ・ホップの母国で発表されて、さらにそれが翻訳されて日本で発表されるってこと自体、すごく意味があることだし、計らずも日本のヒップ・ホップがそれに値する文化的価値を持ったカタチで発展してきたってことなんだとも言えると思うし。そう考えると、「新鮮な驚き」と「違和感」と「共感」が 1/3 って、実は適切というか、絶妙なバランスなのかな、とも思えるし。

まぁ、日本のヒップ・ホップに関しては、日本でも「聴く人」と「聴かない人」の間に大きなギャップがあって、そこには日本人特有の歪んだ先入観とコンプレックスとあって、でも、同時に、そういうことにまったく気付かずに上っ面だけを何の衒いもなく「それらしく」借用して消費する(まぁ、実際には「それらしく」ってレベルにも達してないんだけど)ことを恥じないのもまた日本人特有の現象だったりするんだけど、だからこそ、この『日本のヒップホップ』みたいな本に意味があるのかな、とも思えるわけで。まぁ、一言で言っちゃうと「耳ヲ貸スベキ」だろ、ってことなんだけど。


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