2008/10/27

Move as you like.

スマートモブズ ― "群がる" モバイル族の挑戦

. :ハワード・ラインゴールド 著
. :公文 俊平・会津 泉 監訳 (NTT 出版

タイトルになっている「スマート・モブズ(smart mobs)」とは、著者曰く「インターネットにリンクされたモバイルの通信機器、パーベイシブ・コンピューティング、及び集団行為を組織するための技術の使い方を知っている人々」とのことで、その着想は渋谷駅前のハチ公口・スクランブル交差点で携帯電話を片手に「通話」ではなく「操作」している日本人から得たんだとか。つまり、ちょっと言い方を変えると、スマート・モブズとは「ケータイ(単なる「携帯できる電話」という枠を超えているので、あえて「携帯電話」ではなく「ケータイ」と呼びます)や PDA、小型ゲーム機器等の通信機能付きモバイル機器をスマートに使いこなす人々」みたいな意味になるんだと思うけど、その特徴とそこに秘められた可能性及び危険性について考察した書籍ということ。

原書は 2002 年、訳書は 2003 年の出版なので、情報はちょっと古いし、いろいろと首をひねりたくなるところやピンとこない(ポイントがズレてる)ように感じるところはあるけど、様々な面から、世界中の事象から
検証していて、さすがにアメリカのベテラン・ジャーナリストの仕事といった感じ。因みに、著者のハワード・ラインゴールド氏は "Whole Earth Review" のエディターや "HotWired" のエグゼクティヴ・エディターを務めたことで知られ、『バーチャル・リアリティ』等、テクノロジー関連の著書も多い人なんだけど、個人的には著書のひとつ、『思考のための道具』の印象が強い。コンピュータが個人の道具になる(=パーソナル・コンピュータの発展)過程をとても広範且つ深くまとめていて、広い意味でパーソナル・コンピューティングについて語る時の基本事項を学び、その可能性について考える上ですごく参考になった一冊。その彼の書籍ということもあるし、iPhone を使い始めて以来、あらためてすごく関心が沸いてきたテーマでもあるので、興味を持って読んでみた。

著者が例に挙げているのは、ハチ公口・スクランブル交差点でケータイの「操作」に没頭する日本の若者たちだけでなく、ノ・ムヒョン政権成立に大きく寄与した韓国のエピソードや 2002 年のアメリカ大統領選挙、ブラジルでの SNS の大きな広がり、マニラの「ジェネレーション txt」による大統領罷免運動、ヘルシンキの若者、さらには、執筆当時に普及しつつあったブログまで、とても幅広い。そこにあるのは「ポケットに入れて持ち運べる機器が無線インターネットを通じて互いに交信するスーパー・コンピュータになったら人間の行動はどのように変化するのだろうか」という壮大な疑問。その根底にあるのは、突き詰めて言うと「協力」ということなのかな、と。

著者の挙げるスマート・モブズの特徴は、
  • たとえ互いを知らなくても強調して行動できること
  • コミュニケーションと情報処理の両方の能力を持つ端末を持ち歩いてるので、過去にできなかった方法で協力することができること
そこには、今までは掬い切れなかった膨大な量の「共通にプールされる資源= CPR(commom pool resources)」を活かすだけの力があり、具体的には、古くはタイム・シェアリング、現代では P2P や Folding@home のような分散コンピューティングのような仕組みに、パーソナル・コンピュータ以上にパーソナルで肌身離さず持ち歩いている携帯端末に位置情報が加わってできたネットワークの力は、まさに計り知れない。古くはバーコードがヴァーチャルとリアルの架け橋となったように、ヴァーチャルとリアルの親和性が高まれば、なおさらその力は大きくなる。しかも、インターネット自体がもともと「核戦争でも生き残れるように設計されてる」なんだから、その堅牢性も相当なものであるはず。こんな風に発想が飛躍していくのはとても自然なことだ。

また、著者がトム・スタンデージの『解放されたインターネット』から引用している「電話は電報と同じ回線を使用したために、最初は単に話ができる電報としか思われなかったが、実際にはまったく新しい別物に化けた」という言葉が示唆してるように、インターネットもケータイ(及び他の通信携帯端末)も、「単に」という当初の想定の枠を大きく超えて、まったく別物と言ってもいいものに「化け」ている。インターネットの爆発的な普及を促したのは、実は当初、オマケ的に余暇の中から生まれたメールだったことは有名だけど、著者が「これからのモバイル情報通信産業のキラー・アプリケーションはハードウェアやソフトウェアではなく社会的な慣行だ」と語る通り、モバイル情報通信産業に限らず、本当のキラー・アプリケーションは常に「社会的な慣行」だったりするわけで、そこには「技術をどのように使うか」ということだけではなく「技術を使うことで自分たちはどのような人間になってしまうのか」という問題も同時に存在するという指摘も理屈はわかるし、それ以上に、皮膚感覚の実感としてリアリティを感じる。

著者がスマート・モブ技術の潜在的な脅威として挙げているのは 3 点。
  • ジョージ・オーウェルの1984 年』的な管理社会に利用される危険性という「自由への脅威」。
  • 高度に自動化された情報社会での行動が、正気と礼節を蝕むより先に利便性をもたらしてくれるか定かではないという「生活の質への脅威」
  • 人間がより機械的に、非人間的になる危険性という「人間の尊厳への脅威」
基本的に、パーソナル・コンピューティングやインターネットの世界には、スティーブン・レビーが『ハッカーズ』で掲げた「ハッカー倫理」(「コンピュータへのアクセスは無制限且つ全面的でなければならない」「実地体験の要求を決して拒んではならない」「情報はすべて自由に利用できなければならない」「権威を信用するな ー 分権化を進めよう」というもの)やリチャード・ストールマンがフリー・ソフトウェア運動で唱えた「フリー」=「無料でなく自由」という感覚、誰もが自由に制作・閲覧・編集できることを意図したティム・バーナーズ・リーの描いた www 像などの精神があるはずだけど、その一方で「ソフトウェアは、ユーザーが引き出しに入れ、いろいろ手を加え、互いに分け合う公共財ではない。私有財産なのだ」と 1976 年に唱えたビル・ゲイツの例なんかもあるわけで、この問題は無視できない。

著者が引用してる発言で、もうひとつ面白いのが日本在住の認知学者、アンディ・クラークの発言。曰く、「人間は既に、かなり前からサイボーグになっている。単に肉体と電線を結びつけたという意味ではなく、その精神と自我が生物的な頭脳から非生物的な回路にまで及んでいる思考と推論のシステムという意味で。つまり、
人間は、もはや人間・技術の共生体なんだと。この感覚は、漠然とだけど、なんとなくシックリくるような感じがする。直感的且つ実感のレベルで。脳学者の茂木健一郎氏は前にガンダムの話の中で、(うる覚えなんで細かい言葉遣いや表現は正確ではないけど)車の運転をすることで自分の肉体が拡張されたように感じるように、モビルスーツで宇宙に出ればそういう感覚はあるはずだし、それこそ人間がニュータイプになれるってことだみたいなことを力説してたけど、似たような感覚はマックや iPhone を使って感じることはあるし。

ただ、
「技術をどのように使うか」ということだけではなく「技術を使うことで自分たちはどのような人間になってしまうのか」という問題に関して、インテリなアメリカ人の著者が感じてる危惧とはかなり違うレベルで危惧を感じてる「日本人として」の自分もいるのも事実。冒頭に、スマート・モブズとは「ケータイや PDA、小型ゲーム機器等の通信機能付きモバイル機器をスマートに使いこなす人々」みたいな意味になるって書いたけど、ポイントは「スマートに」ってところだと思ってて。

渋谷のスクランブル交差点の光景から韓国やフィリピンのエピソード、さらには P2P とか分散コンピューティングなんか想像できるインテリには思いもよらないようなレベルの問題。一心不乱にケータイを操作して「何をしてるのか」、そして「そんなことばかりしているとどんな人間になってしまうのか」。ここにポジティヴなイメージが浮かんでこない感覚は、きっと著者にはイメージできてないだろうなぁ、と。スマート・モブ技術とはまったく関係ない次元に存在する問題が、スマート・モブ技術によって増幅されている感じ。そういう意味では、奇しくもスマート・モブ技術の力を示しているとは言えるけど。ただ、スマート・モブ技術が必ずしも「スマートな」モブスを生み出しているわけではない、と。

あと、ウェアラブル・コンピューティングとか、クールタウンとか、正直、ちょっとピンとこない感じ。インテリが難しいことをたくさん考えて作ってたり、高いスーツ着たコンサルタントととかが会議室でまとめたアイデアみたいなビミョーな空気を感じる。頭でっかちな感じ。あと、この訳書の装丁デザインもどうかと思うけど。表紙が背表紙みたいだし、せっかくのシャープさやクールさが損なわれてる。この辺は日本サイドの制作・編集スタッフのセンスの問題だろうけど。ただ、その辺りの感覚のズレとかはありつつも、それを補うくらいの情報と示唆には富んだ一冊ではある。

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