『文化系のためのヒップホップ入門』
長谷川 町蔵 / 大和田 俊之 著(アルテスパブリッシング) ★★★☆☆
Link(s): Amazon.co.jp / Rakuten Books
前にレヴューした『HOW TO RAP 104 人のラッパーが教えるラップの神髄』と並んで、年末に発売されてちょっと話題になってたヒップ・ホップ関連書籍で、同じ時期に読んでたんだけど、レヴューし忘れてた一冊。一般的な評価は「ヒップ・ホップ入門書としては最適」的な感じになってるらしい。
構成は、さまざまな音楽(特にアフロ・アメリカン・ミュージック)に造詣が深いにも関わらず、つい最近まで「ヒップ・ホップの壁を越えられなかった」(のが、あるキッカケで急にその気持ち良さに気付いた)というアメリカ文学者の大和田俊之氏と、『HOW TO RAP』の巻末の解説も書いてた音楽ライターの長谷川町蔵氏の対談って形式。内容的には、あくまでも日本に住んでる日本人としての目線で語られてて、黎明期のエピソードから時代に沿った東海岸・西海岸・南部の動き、R&B の関係やジェンダー、さらに前にレヴューした『ミックステープ文化論』的な最近の動向までカヴァーされてるし、ディスク・ガイドも充実してる。
しかも、わりとフランクな会話で構成されてるんで、実はわりと難しいことを言ってたりしてもあまりそうは感じさせないし、何というか、'スパイス' みたいなモノが適度に効いてる感じでもあるんで、確かに読みやすい。その 'スパイス' ってのは、主に長谷川氏が使うかなりバッサリとした乱暴な表現と喩え。例えば、「ヒップ・ホップは音楽ではない」なんて言ってたり、「ヒップホップは少年ジャンプである」「ヒップホップはプロレスである」「ヒップホップはお笑いである」なんて喩えも、メチャメチャキャッチーだし、言い得て妙でもある。他にも、「上手いこと言うなぁ」的な部分は多い。でも、ちょっと誤解を招きそうな乱暴な単純化な感じがしなくもなくて、ちょっと抵抗を感じたのも事実だったりしたかな。まぁ、ある種の芸風というか、あえてそういう 'キャッチーな' 表現を使ってるんだろうけど。
何と言うか、決して面白くないって感じてるわけじゃないし、むしろ、「解りやすさ」の面では、数ある類書の中でもすごくいい出来だと思うくらいなんだけど、でも、読んでるときも、読み終わった後も、ある種の違和感を拭えなかったのは事実。そこがなかなか評価を下しにくいポイントだったりするんだけど。
その違和感の原因はいくつかある感じがするんだけど、突き詰めると、タイトルにも使われてる '文化系' って括りだったり、会話のそこかしこから感じられる、日本の一部のメディアでよく使われがちな('サブ・カルチャー' とは似て非なる)'サブカル' 的な物事の捉え方なのかな。よくよく考えてみれば、タイトルの「文化系のための」ってどういうことなんだ? って感じがしちゃうというか。ここでいう '文化系' って言葉の意味もイマイチピンとこないし。'理系' の対義語? '体育会系' の対義語? 何となく後者な感じはするけど、そういう分類自体、今も機能してるのか(意味があるのか)、イマイチビミョーな感じがするし。本書内で明確に説明されてるってわけでもないんで、イマイチよくわからない。
そう考えると、そもそもの前提として、この本の想定読者ってどういう人なんだろ? って疑問も浮かんできちゃう。イントロダクションには「ヒップ・ホップの壁を越えられなかった」「興味があるのに聴き方が分からない。どこから手を出せばいいのか分からない」という、かつて大和田氏みたいな人のことって書いてあるけど、「ヒップ・ホップの良さがようわからん(理解できん)」って人で、それでも「本当は知りたい(理解したい)」って思ってる人なんているのか、もっと言うと、「音楽を理解したい(しかも、好きになる前に)」って状況なんてあるのかって素朴に思っちゃって。ある音楽を好きになって、その音楽についてもっと知りたい(理解したい)ってのは解るし、すごく自然なことだと思うけど、「好きになる」ってプロセスなしに「理解したい」って発想になるって、(ライターとか評論家とか研究者とか、職業的な要請があるならともかく)純粋に 1 人のリスナーとしてはイマイチリアリティを感じられなくて。
もう一方の著者の長谷川氏は、基本的には「ヒップホップ道を邁進してきたというわけではなくて、昔の洋楽ファンの感性のままここまで来たって感じで来たって感じで。B ボーイではなく傍観者としてヒップホップのシーンを眺めていました。でも、そういう立場から聴いてもヒップホップは今も昔もめちゃくちゃ面白いんですよ」というスタンスとのことで、「ヒップホップになじめないという人は、ロックこそが普遍的な音楽だと無意識に考えている人が多いんですよ。だから比較することは、ヒップホップ理解に絶対役立つと絶対役立つと思うんで」なんて言ってたりもするんだけど、そんな論理展開も、ちょっと無理がある感じがしちゃうし。
ロック(より厳密には、いわゆる '伝統的なロック的価値観' なのかな?)との比較は、これはこれでなかなか興味深い論旨だし、個人的には合点のいく部分も多いんだけど、コレって、いわゆる '伝統的なロック的価値観' をある程度以上通過した上で、ヒップ・ホップにもそれなりに親しんできた(好き・嫌いはともかくフォローしてきた)人なら解るってハナシで(そういう意味では、確かに解りやすい)あって、いわゆる '伝統的なロック的な価値観' の人が(理解できるようにはなるかもしれないけど)好きになるキッカケになるのか? っていうと、それはそれで別の問題だと思うし。しかも、逆に特に詳しく時代性とか地域性とか気にせず漠然とヒップ・ホップを聴いてる(特に若い)リスナーにとっては、今となっては '伝統的なロック的価値観' なんてむしろピンとこないだろうし。
例えば、「ロックの世界では唯一無二の個性って強烈な売りになるんですけど、ヒップホップってクラブやラジオ番組で他のアーティストの曲と繋いでかけられる」ものであり、「ヒップホップと比較したときにロックの 'オリジナル' 信仰が際立ちますよね」「ロックは誰でも真似できるからこれだけ広まった音楽なのに、それって矛盾してますよね。そんな矛盾を乗り越えられるのは天才だけだから、自ずと天才がシーンを牽引する形になる。でも天才がいなくなるとシーンが停滞する。次に現れた天才は、前の人とは違ったスタイルでロックを前に進めなくてはいけない。でも所詮バリエーションには限界があるから、初期の天才であるビートルズやジミ・ヘンドリックスを誰も超えられないという事態が発生しちゃう」けど、一方の「ヒップホップは、シーンを天才が牽引するというよりは、みんながトップを争ってボトムからあがっていく感じなんですよ」って部分があるんだけど、確かに、これはこれで合点はいくし、ロックとヒップ・ホップの特徴をすごく簡潔に言い表してる比較だとは思う。ただ、コレって、ロックとヒップ・ホップの比較でしかなくて、特徴の違いはわかりやすいけど、'ロックこそが普遍的な音楽だと無意識に考えている人' にとって(理解は進むだろうけど)好きになるキッカケになるのかっていうとビミョーな気がしちゃう。っつうか、やっぱり、そもそも「(先に)好きになってなってないのに理解してどうするの?」って感が拭えないし。
要するに、「'伝統的なロック的価値観' が今でも大多数の音楽ファンのコンセンサスだ」って前提で書かれてる(対談されてる)ってことなんだろうけど、その前提に根本的な違和感を感じてるってことなのかな? 未だに '伝統的なロック的価値観' に囚われてる人が、特にある世代以上にけっこういることは知ってるけど、実情としては「'伝統的なロック的価値観' なんてもうとっくに終わってね?」って思ってるから。
別にロックの歴史とかロックってスタイルを否定するつもりはないし、今、ロックを演ってるアーティストとか最近のロックの作品とかロック・ファンを否定するわけじゃないけど(実際、わりと好きなアーティストをいるし作品もある)、1950 年代に生まれて 1960 〜 1970 年代に世界的にメチャメチャ大きな役割を果たしてきた '伝統的なロック的価値観' なんて、まぁ、長く見積もっても 1990 年代頃には一定の役割を終えてるだろって思うだけで。実際、2000 年代以降に音楽シーンとか、 その枠すら超えて社会とかライフスタイルに大きな影響を及ぼしたような動きがロックにあった? って。もちろん、個別に優れたアーティストか素晴らしい作品はあるとは思うけど。
だから、「ロックと比べると…」とか「ロックと違ってヒップ・ホップは…」みたいな論旨には違和感を感じるし、イマイチしっくりこない。逆に、未だに '伝統的なロック的価値観' に囚われてるようにも感じられちゃうし。ライムスターの宇多丸 氏のラジオ番組『ウィークエンドシャッフル』での評論(紹介?)からもそれをすごく強く感じたけど。まぁ、宇多丸氏は特にロックに対するルサンチマンとか敵愾心が根深いんだろうけど(個人的にはあまり好きじゃないけど、それを芸にしてる感じもするし)、自分が「溜飲が下がった」ことを強調しすぎて、'対ロック原理主義者の理論武装アイテム' としてのファンクションしか伝わってこない感じがして。確かにそういうファンクションもあるけど、それって「ロック原理主義者と口論して言い負かされてるヒップ・ホップ・リスナー」の役にしか立たないし、そんな用途、ちょっと狭すぎだろ、と。確かに、1990 年代くらいまではそういう必要があったと思うけど、ヒップ・ホップこそが押しも押されぬメインストリームのド真ん中になった 2010 年代になってる(しかも、とっくにロックが一定の役割を終えてる)のに、未だにそんな 'ロック・コンプレックス' 的なモノを感じてるって、逆にちょっとピンとこない。まぁ、'伝統的なロック的価値観' に囚われてる人のことを本書では '文化系' って規定してるのかもしれないけど(それはそれで、もちろんピンとこないけど)。
ただ、本書が「未だに '伝統的なロック的価値観' に囚われてる」だけの本かっていうと、内容的には全然そんなことはなくて(だからこそ、そういう風に取られがちな感じは、むしろもったいないと思うんだけど)。じゃあ、どういう風に読めば(どういう読者にとって)面白いと思うかっていうと、 特に詳しく時代性とか地域性とか気にせず漠然とヒップ・ホップを聴いてる(ヒップ・ホップが好きな)若いファンが、ヒップ・ホップの成り立ちや歴史、(ロックを含む)他のアフロ・アメリカン・ミュージックについてやヒップ・ホップとの関連性を知ることで、ヒップ・ホップの理解を深めるってケースなんじゃないかな。ロックとの比較も、むしろ若いヒップ・ホップ・リスナーがロック(+ ヒップ・ホップとの関係性)の理解を深めるのに役立つと思うし、実際、こういう目的の本として考えたら、かなりよくできてる(だからこそ、そういう方向性でまとめられてたらより良かったとは思うけど)。
例えば、「ヒップ・ホップ・シーンではニール・ヤング(NIEL YOUNG)よりスティーヴン・スティルス(STEPHEN STILLS)のほうが評価が高い。理由は、スティーヴン・スティルスの曲にいいブレイクがあるから」ってハナシがあって、宇多丸氏もこの部分に触れてたけど、「ニール・ヤングとスティーヴン・スティルスがどういうアーティストで、スティーヴン・スティルスのどの曲を誰がどの曲でどんな風に使ったのか」ってハナシは「特に詳しく時代性とか地域性とか気にせず漠然とヒップ・ホップを聴いてる若いファン」にこそ知られるべき興味深い情報だと思うんで。
もちろん、全体としてはロックとの比較に終始してるわけではもちろんなくて、「黎明期のエピソードから時代に沿った東海岸・西海岸・南部の動き、R&B の関係やジェンダー、さらに前にレヴューした『ミックステープ文化論』的な最近の動向までカヴァーされてるし、ディスク・ガイドも充実してる」って書いた通り、ヒップ・ホップの全体像を掴むためのポイントはしっかり押さえられてる(だから「特に詳しく時代性とか地域性とか気にせず漠然とヒップ・ホップを聴いてる若いファン」に相応しいと思うんだし)。
まず、ラップの題材・表現の特徴をすごく端的に表現してる。曰く、「ウンザリするような日常を脳内でファンタジーに変換ことこそ、そもそもアフロ・アメリカンの得意技であり」、「ラップは、コミュニティの皆が共感できるトピックをお題に誰が上手いかを競い合うゲーム」だとした上で、『ヒップホップはアメリカを変えたか?』のレヴューでも触れた「ヒップ・ホップ / ラップ =(現状を改革するための刺激や影響を若者に与えるような)政治的・社会的メッセージを歌う(べき)ものだ」っていう考え方についても、「そのトピックのひとつとして政治への不満があるという認識です。政治的なメッセージが '金が欲しい' より高尚って考えるのはロック的な考えであって、政治に怒りを覚えることもあれば金が欲しいと思うこともあるのが人間じゃないですか」なんて、すごくあっさりと言ってたりする。むしろ、メッセージ色の濃いパブリック・エネミー(PUBLIC ENEMY)とか、その正反対的な存在としてのデ・ラ・ソウル(DE LA SOUL)のようなアーティストこそが、ヒップ・ホップのゲームに参加するより、ヒップ・ホップを音楽ジャンルとして発展させようとしたから、シーン全体の中では異端だ、と。
さらに、Q・ティップ(Q-TIP)やコモン(COMMON)、カニエ・ウェスト(KANYE WEST)のようなアーティストについても、「ヒップ・ホップのゲームのルールを守りながら、ギリギリのところでヒップ・ホップを音楽ジャンルとして発展させていこうとしている感じ」なんて言ってるんだけど、この 'ゲーム' の部分と '音楽ジャンル' が混在してるのがヒップ・ホップであり、通常、音楽シーンが注目する '音楽ジャンル' の部分だけ見てると、ヒップ・ホップの全体像を見えないってことになるってことなのかな。(言葉としては好きじゃないし正確でもないと思いつつ便宜上使うけど)タレントととかアイドルとか、メインストリームのショウビズ界のスターなんかにちょっと通じる部分があるのかな? 音楽も演るし映画にも出るし…って活動をしてるスターの全体像は、音楽だけを見てて(聴いて)もわかんないのと同じで。実際、ヒップ・ホップのトップ・アーティストたちはメインストリームのショウビズ界のセレブリティでもあるし。まぁ、好き・嫌いは抜きにして、無視できない特徴であることは間違いない。
特に 'ゲーム' の部分を上手く説明してるのが、「ヒップホップは少年ジャンプである」「ヒップホップはプロレスである」「ヒップホップはお笑いである」の 3 つの喩え。'ジャンプ 3 原則' といわれる '努力・友情・勝利' で生み出されるストーリーこそがヒップ・ホップ・ゲームの醍醐味であり、そこには、暗黙のコンセンサス(= ルール)の存在を前提とした 'プロレス的な' 茶番の要素もかなり含まれてて、リスナーもそれをわかった上で楽しんでる、と。'お笑い' との共通点は、いろいろなクルーが存在し、先に成功したヤツがクルーの若手をフック・アップする(そして、リスナーもその背景を知った上で楽しんでる)感覚。確かに言われてみるとその通りだし、(特に一般的な日本人にとっては)すごくわかりやすい。
ヒップ・ホップがメインストリームになった大きな要因として、1990 年代の西海岸のヒップ・ホップ / ギャングスタ・ラップがあるんだけど、その背景には、それ以前にマイケル・ジャクソン(MICHAEL JACKSON)の "Thriller" やプリンス(PRINCE)の "Purple Rain"、さらにラン DMC(RUN DMC)等は「タテノリで白人にウケた」って要因があり、「白人のティーンがヘヴィ・メタルの代わりにギャングスタ・ラップを聴き始めた」ことがヒップ・ホップ、特に西海岸のヒップ・ホップ / ギャングスタ・ラップの大きな功績でありつつも、同時に「西海岸のギャングスタ・ラップが出てきたことでジャンルのイメージがかなり画一化された」とも指摘してたり、そのギャングスタ・ラップについても、「ヒップホップは '新しい / 古い' ではなく、自分たちが '今' いる '場所' のドキュメントなんですよ。ギャングスタ・ラップって常に内容が批判されるじゃないですか。でもキワどい話って仲間うちでは共有されているもので、一種のフォークロアです」なんて、すごくわかりやすく分析・整理してる(そもそも、ラップ自体についても「自分のことを虚実を交えて物語る番長マンガの主人公」とか「血気盛んな 10 代の不良の、喧嘩の代償行為として始まった音楽に、'女性観がヒドい' って言っても仕方ないだろ」なんて言ってるし)。
個人的に引っかかった具体的な点としては、例えば、ダズンズ 〜 サイファーみたいな口頭文化とかアフロ・アメリカンの教会からラスト・ポエッツへの流れとか、ブレイクダンスやグラフィティ(最初にメディアに注目されたのは、DJ プレイでもラップでもなくブレイクダンスだったこと、グラフィティ自体はヒップ・ホップ以前からあり、ダウンタウンのアート・シーンで受け入れられてたこと等)にも言及されてるところ辺りがあるかな。ユダヤ人との関係(黒人らしさのイメージは実はユダヤ人が作った)なんかも面白かったし。
他にも、(今ではあまりアフロ・アメリカン・ミュージックだと認識すらされてない巻すらする)ハウス / テクノとの関係性にもしっかり触れられてて、ディスコにあった匿名性を受け継いで抽象性を表現してるハウスは俗なヒップ・ホップと対象的で、ブルーズとゴスペルの関係に似てるなんてハナシも、あまり語られることはないけど、すごく大事なポイントだと思うし。
あと、ジャズとの類似点と R&B との関係性のハナシがかなり興味深かった。長谷川氏曰く、「いまや R&B はヒップホップのサブジャンル」であり、ニュー・ジャック・スウィングの世代のアーティストの多くはヒップ・ホップのもたらした変化に気付かずに徐々に低迷していったなんてバッサリ言い切ってて。その数少ない例外は、自らのスタイルを変えることで変化に対応した R・ケリー(R. KELLY)だって指摘してるんだけど、それを受けて大和田氏もジャズの歴史との類似点を指摘しながら、「100 年以上に及ぶアメリカ黒人音楽史の重心をどこに置くかと考えたとき、R&B やソウル ー そしてニュー・ジャック・スウィングを加えてもいいんですが ー の流れはむしろ傍流なのではないか」「本流はあくまでもブルーズ、ジャズ、ファンク、そしてヒップ・ホップなんですよ」「後者の流れを突きつめればループ、いわゆる反復音楽です。それに対して R&B やソウルは反復音楽ではないですよね。つまり、楽曲に〈構造〉があるということです。A メロがあって B メロがあってサビがある。それは物語構造を持っているという意味で、むしろクラシック音楽やポップスに近いんです。こうした楽曲にはちゃんとクライマックスがあって、最後には余韻やカタルシスがある。でも(先程いったように)反復音楽にはサビはありません。言い換えれば、クライマックスが常に先送りされる 宙づり状態が延々と続いているともいえます」なんて言ってる。そして、ループをベースとしたトラックを上手く消化して、それにマッチしたヴォーカル・スタイルを確立したのが R・ケリーであり、メアリー・J・ブライジ(MARY J. BLIGE)等、ニュー・ジャック・スウィング以降の(ヒップホップのサブジャンルとしての)R&B シンガーだ、と。まぁ、ちょっと乱暴な言い方だけど、すごく合点がいくかな。実体験的にも、1980 年代頃のブラ・コン 〜 ニュー・ジャック・スウィングには全然ピンとこなかったし、その後の(ヒップ・ホップ以降の)R&B とは大きな隔絶みたいなモノを感じてて、でも、その違いが何だったのか、わざわざ考えてみたことはあまりなかった(単に1980 年代頃のブラ・コン 〜 ニュー・ジャック・スウィングがダサイだけだと思ってたところがあった)んで、その辺のモヤモヤはけっこうスッキリした(別に傍流だからいけないってハナシじゃないけど。1960 〜 1970 年代のソウル・ミュージックは素晴らしいし)。まぁ、さすがに「とにかく 90 年代に起きた、ヒップホップ・ソウルからティンバランドの登場という出来事は、黒人の歌ものの歴史でも 50 年に 1 回くらいの革命的な事件だったと思うんです」ってのは、ちょっと大袈裟かなって思ったりもする。ただ、ヴォーカル / ラップって境目も含めて、ポップ・ミュージックの構造とかヴォーカリゼーションのスタイルに大きな影響を与えたのは確かだと思うけど。
他にも、アフロ・フューチャリズムのコラムとかポスト・モダニズムとの相性の良さについても面白かったし、ヒップホップがずっと苦手にしてきた(そして、ロックの主なテーマだった)のが '孤独' とか '疎外感' だったんだけど、それすらもヒップ・ホップは表現し始めてて、その代表格がカニエ・ウェストとかだって指摘とか、かなり的確で的を得てる。
前にレヴューした『ミックステープ文化論』で論じられてたミックステープを巡る動きについても、そもそも音楽を '作品' 中心に理解するようになったのはこの 2 〜 3 世紀にすぎないことを指摘しつつ、音楽が本当の意味でフォークソング = 民衆の歌になりつつあるんじゃないか? なんて述べてたりして、その考え自体は合点がいく部分が半分、イマイチピンとこない部分が半分みたいな感もあるんだけど、まぁ、とりあえず、最新の動きまでカヴァーされてること自体はすごくありがたいかな。
かなり長々と書いちゃったけど、カジュアルな読み心地のわりに、情報量とか網羅してる時代とか範囲の広さを考えると読み応えはかなりあって、その辺のバランス感覚は絶妙だし、 ディスク・ガイドも充実してるんで、やっぱり「特に詳しく時代性とか地域性とか気にせず漠然とヒップ・ホップを聴いてる若いファン」がヒップ・ホップ及び関連音楽の理解を深めるのには相応しいって印象かな。上にも書いた通り、個人的にはちょっと抵抗を感じちゃったし、読後もその感覚が消えてないのは事実なんだけど(だから、星は 3 つにした)、でも、それなりにヒップ・ホップを知ってる人でも思わず感心しちゃう部分も多そうだし、わかってた(つもりの)ことが簡潔に言語化されてる気持ち良さもあるし。まぁ、欲を言うと、本文内で触れられてる曲の YouTube プレイリストとかがあればより親切かな、って思ったりはしたけど。かなり具体的にイメージができそうだし、単純に聴き応えもありそうだし。ちなみに、この画像が本当の表紙(上の画像は帯が付いた状態)。別に大した意味はないけど、かなり印象が違うんで。
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