2009/02/04

Living extra small. Living nice.

『オランダモデル - 制度疲労なき成熟社会』長坂 寿久
(日本経済新聞社)  Link(s): Amazon.co.jp

『さよなら、消費社会』カレ・ラースン 著 加藤 あきら 訳 
(大月書店)  Link(s): Amazon.co.jp 



どちらもちょっと前の本だけど、最近ちょっと気になることがあって、あらためて読み直した本なので、合わせてレビューを。

「最近ちょっと気になること」ってのは、ちょっと前にニュースなんかでやたらと耳にしたのに、最近ではすっかりその回数が減った感がある「ワーク・シェアリング」ってヤツ(それにしても、最近のメディアはニュースの賞味期限が異常に短い)。2008 年秋の世界的な経済破綻の影響が日本にも及ぶにつれて、年明けくらいから、日本の財界・政界でも無闇に使われはじめてるんだけど、そういった論争(と呼べるほどのレベルなのか? ってのはかなり疑問だけど…)を聞けば聞く(読めば読むほど)ほど、アホくさいっていうか、メチャメチャ違和感を感じて気持ち悪かったで。その辺の違和感をちょっと整理したいなと思って、それぞれ出版時に読んでた『オランダモデル』と『さよなら、消費社会』を読み直してみた、と。

『オランダモデル』は 2000 年に出版された書籍で、著者はアムステルダムに赴任経験があり、その時に興味を持ったというオランダのワーク・シェアリングと、それを可能にした社会システムについて述べている。オランダといえば、個人的には風車とチューリップとウィードの国で、素晴らしい格闘家とフットボーラー / フットボールを輩出してきた国なんで、それだけでも興味がある(というか、好きな)んだけど、一般的には、国内の最高標高地がなんと海抜 321m、「オランダ人は標高 50m 以上を山と呼ぶ」なんてジョークがあるような、ライン川・ヘルデ川・マース川が北海に注ぐ三角州にできた低地の国(「ネーデルラント」の語源は「低地の国」らしい)で、アムステルダムが海抜 0m 以下であることに象徴される運河と治水の国として知られてる。

70〜80 年代に「オランダ病」と称された経済危機を、後に「ダッチ・モデル」として世界中から評価される 90 年代の経済・社会政策で見事に克服、「EU の優等生」と呼ばれることになる変革の大きなポイントになったのがワーク・シェアリングだ、っていうハナシなんだけど、この『オランダモデル』では、単にワーク・シェアリングって手法だけでなく、それを実現させたいろいろな周辺の仕組みだったり、それを可能にしてる社会背景だったりも詳細に、でもわかりやすく述べられている。特別、読み物として面白く書いてあるわけではないし、どちらかというと堅めな感じで書かれてるけど、別に難解ってことはなく、キチンとした内容がスッキリとまとまってる。

ワーク・シェアリングってのは、よく報道されてる通り、みんなの労働時間を少しずつ減らすことで雇用を確保するってことなんだけど、オランダで成功したのただ単にこういう方式を導入したっていう単体のハナシじゃなくて、例えば、フルタイム労働とパートタイム労働を賃金や社会保障の面で差別していないので、自由に自分の働き方を選べることがメチャメチャ大事だし、その背景にあるのは、じっくりと時間をかけてコンセンサスを形成する社会だっていう特徴(その背景には、どこか一ヶ所でも決壊したらみんなが困るので、当事者みんなが最初から集まって、相談して、計画的に管理することが不可欠な「治水」があるんだとか。みんなが対等で、みんなが当事者だ、って発想でコンセンサスを形成しないとハナシが進まないし、そうする必要があったということだったり、NGO・NPO の有効且つ有機的な活用だったり、もっと言うと、大麻や尊厳死に対するオール・オア・ナッシング的な手法ではない「緩くて現実的」な取り組み方とか、老人が生き生きと暮らせるような国づくりだったりとか、そういう部分も含めた社会の仕組みであり、国づくりとか国のデザインのハナシだから、ただ、ワーク・シェアリングって手法を単体で取って付けたようにマネしようとしてもだってこと。

あと、個人的にすごく大事だと思うのは、オランダのモデルの特徴として「夫婦ふたりで 1.5 人分」的な考え方がベースにある点。通常ならふたりなので当然 2 人分なんだけど、ふたりが 1/3 ずつ労働時間を減らすことでお互いに時間的な余裕が生まれ、余暇とか子育てに当てられて、同時に、ひとり暮らしよりもいろいろな効率がいいので、必ずしもふたりで暮らすのに 2 人分なくても大丈夫(ひとり暮らしより同棲したほうが無駄が省けるのと同じ理屈)だろうから、経済的な負担を大きく増やすことなく、時間の余裕が生まれて、より豊かに暮せるだろう、と。つまり、ポジティヴにワーク・シェアリングを取り入れてるし、ポジティヴに取り入れられるような仕組みづくりと社会的なコンセンサス作りがなされてるってこと。ここがすごく大事。

それは、昨今の日本のワーク・シェアリングの議論から感じる大きな違和感は「ワーク・シェアリングをポジティヴなモノとして捉えていないこと」だから。「今は危機なんだし、この場をとりあえず凌ぐためにしゃーない」的な、ネガティヴなモノとして、仕方がないから取り入れるみたいなニュアンスでしか話されないこと。日本の経済とか雇用情勢がこれだけヒドイ状況になってるのに、周りを見ると忙しい人はメチャメチャ忙しくて、不況の煽りをくらって困ってる人はメチャメチャ困ってて、その中間がない、それこそオール・オア・ナッシング的な状況に見える。共通点は、どちらも非人間的・非社会的で、幸せそうじゃないこと(「全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるはずなんだけど)。こんなの、フツーにおかしくね?、それを前向きに解消する方法としてワーク・シェアリングを使おうって発想はなんでできないの?、って普通に思うんだけど。別に、去年の秋以前だってとっくにメチャメチャ格差社会だったんだし、働く人はメチャメチャ忙しそうに働いてて、で、何してるかっつうと、大量生産・大量消費スタイルの消費生活を満喫してた(今もしてる)わけで、その辺も含めてシッカリ見直したほうがいいだろ、と。今回の経済危機があろうと、なかろうと考えるべき問題だと思うし。


そんなことを考えると、2006 年に出版された『さよなら、消費社会』(原著は 1999 年の "Culture Jam: How to Reverse America's Suicidal Consumer Binge - And Why We Must")につながってくるんだけど、これは、いわゆる「アメリカ的な大量生産・大量消費型の社会」に警鐘を鳴らすもので、著者は旧ソ連のエストニア出身で、現在はカナダのヴァンクーバー在住の雑誌 "ADBUSTERS" の発行人で、'Buy Nothing Day' などの運動を展開するアドバスターズ・メディア財団の創設者。わりとラディカルな感じの活動を好むというか、ちょっとマイケル・ムーア的な印象もあって、まぁ、極度にアンチ・ブランド過ぎるところとか、ちょっと引いちゃうというか、なんかグリーン・ピースっぽい感じのビミョーな印象はないこともないけど、まぁ、それを差し引いても、言ってることはなかなか面白いし、ヒントも多い。


第三次世界大戦は、兵士と市民の区別のない、ゲリラ情報戦争になるだろう。 ー マーシャル・マクルーハン

こんな引用ではじまる『さよなら、消費社会』で提示されてるのは、原題にもなっている「カルチャー・ジャム」って考え方で、これは「文化を妨害すること」、もっと詳しく言うと「消費主義文化の創造的破壊」ってこと。著者が「こころの環境問題」と称する、現代社会を蝕む問題に対する「こころのエコロジー」を実現するために、情報過剰(『ニュー・ヨーク・タイムズ』紙の日曜版 1 日分に載ってる情報は、ルネサンス期の平均的な人が一生で得ていた情報量より多いらしい)で、大企業がそこかしこに過剰な消費を促さんとするいろいろな仕掛けが仕込んでいる世の中を見直し、抗おう、と。まぁ、「フツーが何だか気付けよ 人間」((C) ブッダ・ブランド『人間発電所』)ってことだ。この視点はすごく正しい(例えば、日本の芸能人の TV CM / 広告への過剰露出とかね)。

ひとつ、興味深いのが、アメリカの独立とは、もともとイギリス、特にイギリス企業の経済的支配からの解放であり、独立以後 100 年の間、アメリカという国は「企業」というものに対して強い警戒感を持ち続けていたという指摘。つまり、意識的か無意識かは知らないけど、企業や経済は容易に暴走しかねないモンスターだって意識を潜在的に持ってたってことだ。今ではすっかり忘れられてるけど。曰く、「わずか 200 年前に生み出した法的フィクションに過ぎない企業が、今や市民よりも権利を持ち、自由を謳歌している」と。これは現代のアメリカ(とアメリカに植民地化されてる世界)を鑑みる上でもとても重要な視点だし、何か大切なものがありそう。

他にも、大企業のマーケティング至上主義や経済成長至上主義(例えば、経済成長を計る唯一絶対の基準になってる GDP は戦争でも災害でも上がることに疑問を持たない、とか)を槍玉に挙げてて、個人的には、アンチ TV だったり、アンチ車だったりするところとか、すごくシックリくるんだけど、まぁ、そういうことを含めて、(今回の経済破綻がいいキッカケになると思うけど)大きなパラダイム・シフトの時期なんだろうし、だからこそ、著者の言葉を借りれば「マインド・シフト」する必要があるし、そのために「ミーム・ウォーズ」というゲリラ情報戦を繰り広げよう(マクルーハンが言うように)、と。こういう、ちょっとラディカルで乱暴な感じのことを、デザインとか言葉遣いとかの部分で「いい感じのしつらえ」で伝えるのって日本ではなかなか難しい(そういうカルチャーがもともと希薄だし)けど、こういうアイデアはキライじゃないし、いろいろ刺激にもなる。ちょっと刺激が強いくらいのほうがいいと思うし。今の状勢には(特に日本は)。


『オランダモデル』の中で、オランダ社会の特徴として「質素さを積極的に生きていること」が挙げられてるんだけど、やっぱり E. F. シューマッハーも言ってた通り、「スモール・イズ・ビューティフル」ってことをキチンと考えなきゃいけない時期に来てることは間違いない。「スモール」と言えば、オランダとか、あと、社会保障のハナシでよく例に挙がる北欧のハナシとかになると、「日本とは人口が全然違うから参考にならん」みたいなことを言う人もいるけど、そんなときこそ、地方分権と絡めて考えればいいのに。この辺のことは川勝平太の説がわりと好きなんで、そのうちキチンと触れようと思ってるけど、簡単に言うと、日本は 6 つくらいに分割しても経済規模的にはそれぞれ「普通の先進国」並みらしいんで。それでいいじゃん、って。『さよなら、消費社会』の訳者のあとがきに、経済的に豊かな国ほど不健康な食生活をしてるって統計と、幅広い所得層の人に自分の年収があといくら足りないと思うかを聞いたら、現在の所得が多い人ほど不足と感じてる額が多いって調査が紹介されてるんだけど、これも、やっぱ「フツーが何だか気付けよ 人間」だよな、と。2 冊とも今回の経済破綻以前に出版されたモノだけど、今読んでも、というか、今読むと、よりいろいろと考えさせられることが多い。

*   *   *

ここからは蛇足だけど、実はワーク・シェアリングについて全然知らなかった 10 年くらい前に、偶然、似たようなことを考えてたことがあって。社会制度じゃなく、あくまで個人レベルで。キッカケは、当時、よく一緒に仕事をさせてもらってたライターの E さん(リスペクトするライターのひとりでもある)の「イギリス人とかさ、いいオトナが平日の昼間から公園でビール飲みながらフリスビーとかしてるじゃん。あれでいいよね。なんで日本もあんな風にならないのかな」って一言(細かい言葉遣いは正確か自信がないけど、内容としてはこういうこと)。なんか、スゲェ激しく同意しちゃったんで。

90 年代末頃だったんだけど、当時、自分は 20 代後半で、某レコード会社で A&R として働いてて、まぁ、メチャメチャ忙しかった。仕事自体はいい仕事をさせてもらったし、忙しいのもイヤじゃなかったし、それが当然だとも思ってた。収入もそれなりにあったし。でも、仕事が一段落したときに、ふと考えた。これでいいのか? って。忙しくてヒマがないから、ちょっと気になるモノはよく考えないでとりあえず買っとくみたいな、「忙しいから面倒なことはとりあえず(よく考えずに)金で解決する」ような状態、気が付いたら未開封の同じレコードが家に 3 枚あったりする状態ってマトモじゃないよな、って。それで、なんとなく考えはじめたのが、収入が 3/4 とか 2/3 になってもいいから仕事量も 3/4 とか 2/3 にできないもんかな、ってこと。彼女と一緒に住んで、コストをシェアすれば全然成り立つし、一緒に過ごせる時間も増える(それまではほとんどなかった)じゃん、って。もちろん、消費形態は変えなきゃだけど、全然ツラくない程度のレベルで変えられるし。例えば、フツーにキチンと考えて買い物するとか、コンビニばっかり使わずにスーパーも使うとか、買って読まない本が増えるより図書館を使うとか。時間さえあれば。そう考えると「忙しい」「時間がない」ってのを、ただ言い訳にしてただけだし、それですぐに体調を崩したり、好きな女の子を傷つけたりしてるのって本末転倒以外の何ものでもないな、と。それがワーク・シェアリングにちょっと似てたってハナシ。まぁ、残念ながら現状の日本の会社の仕組みではそんなことはなかなかできなくて、だからフリーランスになったって部分もあるんだけど、やっぱり、ワーク・シェアリングってのは単に雇用形態や失業問題の解決策なだけじゃなく、ライフスタイルのデザインとか、そういうレベルでのハナシだってこと。つまり、個人レベルでは、どう働き、どう遊び、どう生きていくか、ってことだし、社会制度レベルでは、国として国民・社会がどうあるべきだと考えるか、ってことだし。

0 comment(s)::