. :小林 弘人 著(バジリコ) ★★★☆☆
今年の春頃に何かで著者のインタヴューを観て、ちょっと気になったので読んでみた一冊。まぁ、タイトルが大袈裟なんで、ちょっと引いたというか、ついつい警戒感を持っちゃったんだけど、タイトルのわりに内容は読みやすい感じではあったかな。良くも悪くも。
読後の印象としても、まぁ、個別の中身自体には合意する部分も多々ありつつも、同時に、読む前に抱いてた警戒感は間違いじゃなかったって印象もあるというか、全面否認ではないけど、諸手を挙げて大賛成でもない感じというか、参考になる部分は大いにありつつも、決して感動したりはしてないというか、ビミョーな感じの読後感なのも事実だったりはする。これまた、良くも悪くも。
著者はインフォバーンの代表で、『サイゾー』とかギズモード・ジャパンとか真鍋かをりのブログなんかを仕掛けたことでも知られる(らしい)小林弘人氏。とは言っても、個人的にはその辺のモノにはあまり馴染みがなくて(もちろん、目にすることはあるけど)、イメージとしては断然、『WIRED 日本版』を立ち上げた人って感じ。『WIRED 日本版』は当時(大学の頃だったかな?)、けっこう熱心に読んでたんで。ただ、当時は小林氏について自覚的だったって記憶はないし、その後の動きに関しても、別に熱心に追いかけてたわけじゃない。だから、特別な思い入れとかはなくて、わりとフラットというか、どっちかっつうと、やや警戒感を持って読んだ感じかな。『WIRED 日本版』以降のモノには、チャラさっていうか、けっこう強い胡散臭さを感じてたんで。しかも、そこに小林氏の存在を意識せずにそれぞれを胡散臭いって感じてたんで、変な先入観を持っちゃってたわけではなく、ホントに胡散臭いって感じてたってことなんだと思うし。
内容の特徴としては、まず、「出版」という言葉の定義を明確にしてる点がある。これが大前提というか。小林氏は自身を「出版人」であると言ってるんだけど、一方で「出版は死ぬ」って言ってて、ここで使われてるふたつの「出版」は同じ「出版」ではないんだ、と。小林氏の定義する「出版」は 'publish'、つまり「公にする行為」のことで、小林氏は自身を、この意味での「出版人」であると言ってる。一方、「死ぬ」と言われている「出版」は、「紙に印刷した新聞・雑誌・書籍等を取り次ぎを経由して書店等に流通させ、売り上げと広告で利益を上げるビジネス」という意味での「出版」で、小林氏は特に書籍よりも新聞・雑誌のほうが危うくて(そう述べてる媒体が書籍だっていうのもある意味アイロニカル)、特にそういう会社(出版社・新聞社等)はそのビジネス・モデルに固執しがちで、特に大手になればなるほど、変にプライドが高いからか、その傾向が強くておハナシにならん、と(そのわりに、他のモノに文句を言ったり、愚痴ったりばっかしてるから、目も当てられないんだけど)。
この考え方自体に関しては、まぁ、全面的に合意できるかな。ただ、いわゆる後者の「出版」(狭義の出版)をやっている会社(出版社・新聞社等)の「中の人」として働いた経験はないんで、あくまでも、フリーランスの立場で「外の(周辺の、かな?)人」って立場でつきあってきた中で感じる部分として、ってことになるけど。 個人的に「編集(者)」って言葉について持ってる感覚に似てるかな? つまり、自分の仕事を「編集(者)」って呼ぶときに、「本や雑誌等を制作する」って意味の、狭義の「編集」ではなく、「本や雑誌等のフォーマットだけじゃなく、いろんなフォーマットでいろんなモノを収集・取捨選択して、あるコンテキストに沿ってカタチにすること」を「編集」だって(少なくとも自分では)意識してるんだけど、感覚的には似てるんじゃないかな、って。ただ、こういう言い方が通じる人と通じない人がいて。しかも、通じない人が、いわゆる「大手」に多かったりもするし。そういう部分も含めて、わりと感覚的に理解できる部分ではある。
たぶん『新世紀メディア論 ー 新聞・雑誌が死ぬ前に』なんて大袈裟なタイトルを付けた意図のひとつは、「狭義の出版人」の凝り固まった頭をガツンとやるみたいなことなんだろうと思うけど、じゃあ何だってハナシになると、ブログに代表されるインターネットだ、つまり、特定の限られた人(法人)が特権的にメディアを持つ時代ではなく、意思さえあれば誰でもメディアを(すごく安いコストで)持てる「誰でもメディア」な時代で、「誰でもメディア」の時代には「誰でもメディア」の時代ならではのやり方があるってハナシになって、具体的な事例とか特徴がいろいろと述べられてる、と。
まぁ、細かい部分は納得したり感心したりする部分も少なからずありつつも、同時に、何を今さら? って思うところもけっこうあったりして。例えば、収益構造のハナシとか。もうちょっとブッ飛んだ議論というか、アイデア提起みたいなモノを期待してたんで。そこがちょっと物足りない部分だったりもしたんだけど(まぁ、でも、どうも世の中では、「何を今さら?」をそれらしくまとめるとありがたがられるっぽくて、それはそれで、個人的にはすごく気持ち悪いんだけど。例えば、やたらと顔を出したがる勝間ナンチャラ女史とか)。
そういう感じなんで、具体的なハナシになると、SEO 的なハナシとかコンサルティングみたいなハナシになったりもして、その辺がどうしても胡散臭く感じちゃう部分だったりはするんだけど。まぁ、いろんなところで講演をしたり、コンサルティングをしたりしてるってのは、ある意味、なんとなく納得できるけど(もちろん、ネガティヴな意味で)。
そうは言っても、「細かい部分は納得したり感心したりする部分も少なからずある」ってのも事実なんで、イヤな感じで引っかかる部分は、まぁ、それはそれとして、「忘れないようにメモ」として書いておくと、以下のような感じかな(多分に「何を今さら?」とか、ちょっと気持ち悪いハナシも含まれてるし、すべてに同意なわけではないけど)。
- まず「それが自分で読みたいモノであり、それを誰も作ってないから自分で作る」ことが基本。
- 「雑誌の本質はそのカタチに非ず」。「コミュニティを生み出す力」こそが雑誌の本質。
- メディア・ビジネスはコミュニティへの影響力という実態の掴みにくいモノを換金することだ。
- 情報収集はソフトウェアでできるが、文脈を編むためには人間の視点が不可欠。その価値はむしろ高まる(相対的に質の低いモノが蔓延するため)。
- 紙は「情報コモディティ」から「嗜好品」に変換する必要がある。狭義の出版は、カメラの世界に於ける銀塩カメラのようになるのかも?
- 紙のメディアは、その信頼を担保にひたすら企業ブランド向上のために記事を書いたり、広告を集めるという、ある種の心理的なマーケティングのために用いられる方向に進むのかも?
- 雑誌はコミュニティ・メディアであり、ライフスタイルの数だけ雑誌はあって然るべき。
- 情報過多なインターネットの世界では、限られた人々の関心というパイを奪い合うカタチのアテンション・エコノミーになる。
- 『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』の著者として知られるジョン・バッテル曰く、メディアには「パッケージされた物のメディア(packaged goods media)」と「会話型メディア(conversational media)」に分かれ、「パッケージされた物のメディア」は既存のメディアと同じで、インターネットを使うとしても、単に流通チャンネルが増えただけで、基本的には店頭等と変わらない。前者が依拠するのは「知的財産の所有と統制」と「高価な配布システムの所有と統制」で、「このふたつに依拠する広告と定期購読によるビジネス・モデル」であり、「会話型メディア」のビジネス・モデルは違う。
- 「ディストリビューション・オリエンテッド」ではなく、「ユーザー・オリエンテッド」「テーマ・オリエンテッド」に。
- 編集者に求められるスキルも変わる。1) ウェブ上での人の流れや動きを直感し、情報を整理して提示するスキルがある。 2) システムについての理解を持ち、なおかつ UI やデザインについての明確なヴィジョンと理解を持つ。 3) 換金化のためのビジネス・スキーム構築までを立案できる職能者である…、というスキル・セットが体系的に訓練されるか、もしくは各自独学でジャンルを越境していく必要がある。
- 「誰でもメディア」なので「誰でもライバル」。ライバルは同業他社だけではない。
- 「ナット・グラフ(nut graph)」が大事(たぶん、これまで以上に)。
- 「自らが編んだ情報を伝えたい」という編集者の欲求を満たすためのモノから、「情報によってつながった人たち」の欲求を満たすために何をすべきか考え、立体的にサービスを提供できるように価値変換を図ることがポイント。
- 思想や態度(アティチュード)に訴えながら、インターネットを媒介として広がる社会運動的なマーケティング手法、コーズ・マーケティング(cause marketing)の可能性。
それから、本書で引用されてるアメリカの未来学者(なんて肩書きだ!)のポール・サッフォの「未来を見通す法則」ってのもちょっと面白い。
- 見通せないときがあることを知れ。
- 突然の成功は、20年以上の失敗の上にある。
- 未来を見通すには、その倍、過去に注視せよ。
- 前兆を見逃すな。
- (見通すときは)中立であれ。
- 物語れ。あるいは、図にするがよい。
- 自分の間違いを立証せよ。
あと、個人的には、情報の分類として「フロー」と「ストック」の中間的な形態として、「エコー」ってモノがあるってハナシはちょっとツボだったかな。つまり、流動性とか回転率、新しさとか即時性とかとしての「フロー」と、アーカイヴとしての「ストック」ってのが、まぁ、基本なんだけど、それをコピーするだけの「エコー」自体にも意味が生まれ得る、と。これには、すごく大事な面と、すごく気持ち悪い面の両方が含まれてる気がするけど。
まぁ、そんなわけで、それなりに読み応えがありつつも、読みやすくもあり、でも、期待外れ面もあり、なんか、モヤモヤ感があるのは事実かな。著者に対する印象も、読後も特に変わってないし。『WIRED 日本版』以降のモノから感じてた胡散臭さも増幅こそされても減ることはなかったし。けっこう大きなこととか厳しいこととか言ってるわりに…、みたいな部分も、正直、感じるし(例えば、ギズモード・ジャパンのダサさとか)。何だろう? 似たようなことに興味があって、だからビミョーにズレてるところが過剰に気になっちゃうような、近親憎悪って言うのか知らないけど(そもそも近親じゃねぇし)、前に、いわゆるジャジー・ヒップ・ホップについて書いたことに、ちょっと似てる感覚なのかな。まぁ、一見、フランクでありながら、まるで親近感を感じられない文体が好きじゃないだけなのかもしれないけど。
あと、この内容なら、こんな装丁じゃなくて、新書でいいんじゃね? とも思ったり。なんか、最近、そんなことばっか言ってる気がするけど(中谷巌氏の『資本主義はなぜ自壊したのか』とか)。新書が飽和状態だからなのか、文体的に新書くらいライトじゃないと読まれない(好まれない)のか、新書でいいんじゃね? って本が増えてる気がするのは、なんかイヤな傾向。でも、新書だったら別に全然アリな感じの内容な気がするし。
それから、この『新世紀メディア論』の内容とは直接関わりがないから触れられてなくても当然だけど、ウェブの世界には「逆」もあって、それはそれで、けっこう深刻で、根が深い厄介な問題だよな、なんて思ったりもした。つまり、「ウェブ屋の論理」しか知らないヤツがたくさんいる(のさばってる)、ってこと。本書で小林氏が言ってる、「紙媒体の編集者がそのままウェブ媒体の編集者になれるわけではない」ってのが真実であるのと同様に、「ウェブを作ってるヤツが編集者の資質を持ってるとは限らない(っていうか、圧倒的に不足してる気がする)」ってこと。これはこれで、大きな問題だな、と。
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