2010/12/10

Deeper understandings. Shallower understandings.

ネット・バカ』 ニコラス・G・カー 著 篠儀 直子 訳(青土社)  
 Link(s): Amazon.co.jp  / Rakuten Books 

前にレヴューした『クラウド化する世界』の著者の新刊で、サブ・タイトルは「インターネットがわたしたちの脳にしていること」。原著は今年発行された "The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains" なので、サブ・タイトルはほぼ直訳だけど、タイトルは相当な意訳。『クラウド化する世界』のレヴューでも書いたけど、けっこう悪質というか、正直、ヒドイ邦題だと思う(ちなみに、『クラウド化する世界』の原題は "The Big Switch: Rewiring the World, from Edison to Google")。

一応、本書の基になったのが "Is Google Making Us Stupid?"(「グーグルは我々をどんどんバカにしているのか?」って感じかな)って論文だからってエクスキューズが付いてるけど、それにしてもかなり印象が違うし、実際の内容とも違ってるし。せっかく、内容はわりと面白いのに。まぁ、著者や訳者じゃなくて編集社(編集者)がやってることだってのは解ってるけど、それにしてもセンス(と常識)を疑いたくなるし、単純に、こういうのって、なんか、すごいイヤな気分になる。

著者は、『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌の上級編集者を務めてたビジネス・ライター(日本でも『クラウド化する世界』の他にIT にお金を使うのは、もうおやめなさい』が出版されてる)。内容的には、サブ・タイトル通り、「インターネットがわたしたちの脳にしていること」を、メディアの発達史的な側面、それこそ文字というモノが何かに書かれるようになった時代から、パピルス・紙の発明、さらにグーテンベルグという変化が人間の脳にどういう影響を与えてきたかという歴史的な部分と、現代の脳科学的な側面の両面から、真面目に語られている感じ。その象徴として使われてるのが、タイトルにある「浅瀬(shallow)」っていう言葉。「インターネットでの長文の読解は難しい(≒インターネットは長文には向かない)」っていう、多くの人が理屈ではないレベルで薄々は感じてたことが、メディア発達史的・脳科学的に検証されてる。曰く、インターネットで文章を読むことは、飽くまでも「浅く速く」読むことである、と。

この手の話題は、インターネット原理主義者も書籍原理主義者もわりと感覚的(感情的)な言葉で語りがちで、どっちにしてもイマイチ説得力に欠ける感じだったりするんだけど、ここで語られてるのは、どちらかの立場で語られてるわけでもなく、感情的になることもなく、特定の結論に至ることを望んでいるわけでもない感じで、いい意味でわりと淡々とフラットにまとめられてる。 

まぁ、バラしちゃうと、このブログ自体、実はこの手の実験の側面もちょっとあったりして、だから、あえて最近のブログでは嫌われがちな長めのテキストをたまに書いてみたりしてたんで(それがどれくらい読んでもらえるものなのかって面も含めて)。

本書では、インターネットで多くのテキストを読むという作業は、印刷物をむ作業とは似て非なる作業で、理解の質も違うし、脳の機能としても異なるってことが語られてるんだけど、ただ、どっちが良くてどっちが悪いかってハナシではない気がする。別に「本を読まなくなるとバカになる」みたいな単純なハナシではないというか(だから、「ネット・バカ」ってタイトルに違和感があるんだけど)。インターネットを使うことで、それまでになかった脳の機能を得ているのも事実だし、一方で、書籍を読まなくなることで、今まであった脳の機能を失うことも事実だってだけで。それぞれ、似て非なる機能だし、当然、脳の機能としての質も違うってだけで、そこに優越はないよな、と。

ここでは、'テキストを' って作業に使うメディアの違いについて論じてるけど、当然、他のメディア、それこそ映像や写真 / グラフィック、そして音についても同じことが言えるわけで。個人的には、世の中の、無闇に映像メディアをありがたがる傾向にすごく違和感があるのも同じ理由だし。「映像=わかりやすい / 文章=わかりにくい」みたいなことを言うヤツがわりと多いけど、全然意味がわかんないし。なんか、そういう風に思われがちだけど、それ、ホント? 騙されてね? って。実は映像ってそれほど親切なメディアじゃないし、'わかった気にさせる' 機能が強い感じがするし。まぁ、脳機能学者のドクター苫米地が「映像は強烈な洗脳装置(になり得る)」って言ってたことともつながるけど。

テクノロジーの効果は、意見や概念のレヴェルで生じることではなく、むしろ、近くパターンを着実に、いささかの抵抗にも出会うことなしに変化させていく。
ー マーシャル・マクルーハン

こういう議論では、やっぱり定番のようにマーシャル・マクルーハンの言葉が引用されるんだけど(特に欧米のライターだとその傾向が顕著)、確かに的を得てる。「中身(=コンテンツ。上のマクルーハンの言葉では '意見や概念')が問題なんだ」的な言葉は常套句で、ある意味ではもちろん正しいんだけど、それだけでは説明しきれない問題であるのも確かだったりするんで。

個人的に面白かったのは、'テクノロジー' っていう、日頃、あまり考えなしに、すごく曖昧に、でも便利だから頻繁に使ってる言葉の性質をキチンと整理してくれてること。その整理は以下の通り。 

テクノロジー:人間が本来持っている能力を補ったり増幅したりするモノ。以下の 4 種類に分類できる。
  • 力や器用さ、回復力を増幅するモノ 例)鋤や戦闘機
  • 感受性や感覚の範囲を広げるモノ 例)顕微鏡やアンプ
  • 必要性や欲求に合うように自然を仕立て直すモノ 例)貯水槽や避妊ピル
  • 知的能力の拡張や支援をするモノ(知的テクノロジー / intellectual technology) 例)地図や時計、そろばん、タイプライター、コンピュータ、インターネット

人間の考えや思考に大きな影響を及ぼすのは当然、4 番目の知的テクノロジーなんだけど、たいがい、その発明者が想定してなかったような副産物を生み、それが、当初の目的以上に大きな意味を持ったりしちゃうこともしばしばだったりする。まぁ、それを今、まさに体験しちゃってるってことなんだろうな。望むか望まないかに関わらず。

この問題は、いろいろな要素が絡んでて、個人的にもいろいろ思うところがあるんで、かなりもやもやしてて(それこそ、ニュータイプのハナシなんかにもつながりそう? とか)、別にこの本が明確な答えを与えてくれるわけではない(っつうか、そんなこと、期待もしてない)けど、まぁ、なかなか刺激的だし、かなり示唆には富んでるかな。'読む' って行為自体の変化(音読から黙読へ)のハナシとか、言われてみれば合点がいくけど想像したこともなかったし、'F 読み' とか 'パワー・ブラウジング' なんて言葉とか、すごくシックリくるし。っつうか、本は 'read' だけど、インターネットは確かに 'browse' だ('ブラウザー' って名付けたヤツはスゴイな)。

あと、スゴイって言えば、やっぱ、マクルーハンはスゴイな。若い頃に頑張って読んで以来になってるけど、あの頃とは状況が全然違うから、もう一回ちゃんと読んだほうがいいのかも。

最後に、本書のわりと最後のほうに出てきた、個人的にわりとシックリきたというか、なんとなく感じてたけど上手く言語化できてなかったことを上手く表現してる文章の引用を。グーグル的なアルゴリズムには違和感があるし、なんか、シナプスのほうが、もっとオーガニックな感じがしてるんで。

ユニヴァーサル・メディアたるインターネットに没頭する際、我々が犠牲にしているものの中で最大のものは、精神の中で作られる接続の富であるだろう。ウェブ自体が接続のネットワークであるのは事実だが、オンライン・データのビットを結びつけるハイパーリンクは、我々の脳内のシナプスとはまったく異なるものだ。ウェブのリンクは単なるアドレスであり、情報のある別のページをブラウザがロードするように命じるソフトウェア・タグにすぎない。シナプスの持つ有機的な豊かさも繊細さも、ここにはまったくない。
Climb as you like.

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