『星の航海師 - ナイノア・トンプソンの肖像』 星川 淳 著
前にスワミ・プレム・プラブッダ名義の著書『屋久島発 地球感覚、』をレビューした屋久島在住の作家・翻訳家の星川淳氏が、ホクレア号という船で「スター・ナヴィゲーション」や「ウェイ・ファインディング」と呼ばれる古代の航海術を現代に蘇らせたことで知られ、前に著作『地球(ガイア)のささやき』をレビューした龍村仁監督の映画『地球交響曲 第三番』にも出演しているナイノア・トンプソンについてまとめた 1997 年の著作。
ナイノアとスター・ナヴィゲーションには前から興味があって、これまでにもウィル・クセルクの『星の航海術をもとめて - ホクレア号の 33 日』やターザン別冊の『ホクレア号について語ろう! 』をレビューしてるんで、この『星の航海師』も当然、前から読んでみたかったんだけど、現在絶版らしく(復刊ドットコムのコメントによるとアマゾンのマーケット・プレイスではけっこうな値がついてたりするんだとか。安く手に入ることもあるみたいだけど)て手に入りにくかったんだけど、やっと読めたので。
昔どおりの船で、大昔の人びとが渡ってきたのと変わらない海を、自然の中の同じ要素を使って航海するという経験は、祖先の魂とじかに触れ合わせてくれました。
こんなナイノアの言葉ではじまるこの『星の航海師』で語られているスター・ナヴィゲーションというのは古代ポリネシアに伝わる古式航海術で、近代的な機器を使わずに、星・月・空・潮流・風・漂流物・海鳥などの自然の情報だけを頼りに太平洋の大海原を自在に往来することを可能にしていたというモノ。つまり、「自分の知識と五感」という機器を駆使するという究極的にシンプルでプリミティヴな航海術で、多くの伝統技術と同様に、古くから広く継承されてきたにも関わらず、近代技術の発達の影響もあって、危うく途切れそうになっていたんだけど、その線をつなげるべくスター・ナヴィゲーションを学び、再生させたのがナイノア・トンプソンというハワイ人だった、と。
「古代ポリネシア」っていうのは、ニュー・ジーランド〜イースター島〜ハワイを結ぶ三角形(地図で見るとこんな範囲)っていう、想像を絶する広範囲に及んでたらしい。それに最初に気が付いたのはかの有名なキャプテン・クックだったらしい(このエリアの人々は、明らかに同源と思われる言葉を話していたんだとか)んだけど、この時期は 17 世紀半ば。当然、それ以前(しかも、言語が共通してるってことは、それなりの期間経過していたってこと)にその技術が既にあったってことで、当然、大航海時代到来の契機となった羅針盤等の近代航海技術が生まれる前だったってこと。
実は、ハワイでもこの技術自体の存在は知られていたけど、現実的に継承している人物はいなくて、ほぼ失われた状態だったんだとか。それを新たに学び、独自にアレンジを加えたのがナイノアで、だから「継承者」ではなく「現代に蘇らせた」と言われてる。具体的には、ハワイの先住民に伝わるハワイ〜タヒチ航路を復元航海を実現しようという目的で設立されたポリネシア航海協会が、ポリネシア古来の双胴カヌーをグラスファイバー素材で再現したホクレア号を、1976 年の第 1 回航海を成功に導いたミクロネシア連邦サタワル島の航海師、マウ・ピアイルグに師事して学び、ハワイ人に馴染みやすいように独自のアレンジを加えながら「現代に蘇らせ」、1978 年の失敗を経て、1980 年に見事に成功させた、ということ。
1978 年の失敗時にそれまでまとめていたノートを流されて紛失してしまったナイノアは、すべて口伝で継承されるサタワル島と同様に、すべて頭の中にその知識を収めてるんだとか。それなら、当たり前だけど失くすこともないし、いつでもすぐに使える。一番シンプルで、一番実用的。こういう感覚って、単に航海だけのハナシじゃないし、とかくいろいろ便利になって、それに反比例するかのように人間のスペックが落ちてるように感じられる昨今だけに、すごく大事なことを示唆・実証してる気がする。
あと、個人的にすごく好きなエピソードとして、材料まで古式に則って 1993 年に建造された遠洋カヌー、ハワイロア号の材料となる木材調達のハナシがある。カヌーに相応しいコアの大木はもうハワイ諸島では手に入らなくなっていたらしく、南東アラスカの沿岸に住むハイダ・クリンギット・ツィムシアンという先住民 3 部族の好意によって樹齢 400 年のシトカトウヒを譲り受けたんだけど、実は一度、ナイノアが実物を見に現地に行ったときに、現地の人は快く譲り渡してくれるつもりで、条件に合う木を見つけるために 6 週間もの間、すごい苦労をしてくれたにも関わらず(または、だからこそ)、実際にその巨木が生えている姿を見て「条件に合っているか? 大丈夫なら切り倒す」と言われたナイノアは「切り倒してくれ」と言うことができずに、そのまま帰ってきちゃったんだとか。当然、相手も大混乱だし、ナイノア自身もすごく混乱してたらしく、そのままハワイに戻ってそのことを長老に相談して、結局、大木を切って使う替わりにハワイに植樹をすることにしたらしいんだけど、実際に木を切り倒すときも、立ち会ったナイノアに「さぁ、どうぞお持ちなさい。しかし、代価などをたずねてはなりませんし、木を送り返すようなこともしないでください。それでは贈り物ではなくなってしまいますから」って言われたんだとか。
あとから考えると、南東アラスカも基本的には島の文化なんですね。その彼らから受けた一番大きな教えは、与えることこそ富だという考え方です。豊かさが蓄積とか消費の量によって計られる現代社会の混乱は、それが逆転してしまったことに起因するのかもしれません。それに対して一般に島社会は、蓄積より分かち合いに価値を置くというこの点で共通したところがあります。ハワイ出身の宇宙飛行士レイシー・ヴィーチも、(ホクレア号に体験乗船したときに)それを強調していました。いったん宇宙へ出たら、国境なんて見えやしない。地球は宇宙に浮かぶひとつの島なんだ、と。その意味で島の文化は、これからの時代にグローバルな意味を持ってくるのではないかと思います。
ナイノアはこう振り返ってるんだけど、すごくいいハナシ。こういう感覚、とても大事だし、島ってのもすごく興味を持ってたんで、なんか引っかかる。あと、アラスカとハワイ諸島は古くから交流があったってもの何か縁を感じさせるし、困ったときに長老に相談するってソリューションがあることも羨ましい。
ナイノアは、知には 3 つのレベルがあるって言ってて、第 1 は先生や本などから「情報」を得るレベル。第 2 はそれを自分の経験によって内化し「知識」にするレベル。そして第 3 が、より深い知、「理解」のレベルで、この「理解」ってのは、ちょっと興味深い、ある種のスピリチュアルなハナシで、こんなことを言ってる。
伝統航法による航海が特別なのは、重大な決定を行う上で、知識だけでは間に合わない状況に出会うことでしょう。習ったことを思い出せる限り総動員しても、結局それに基づかない決定を行っているという経験があるのです。それは、何かもっと深いもの、もっと自分の内部にあったものです。
それはちょうど、世界における自分の場所が理解できるのだけど、いったいどうやってそれを理解したのかわからない、という感じでしょうか。
<中略>
どうしてわかるのか理解できないまま、自分のいる世界を理解し、その世界の中で自分の居場所を理解する ー こういっても意味が通じにくいかもしれませんね。
つまり、「情報」や「知識」は、より深い知である「理解」への用意にすぎない、と。第 1 のレベルに関しては、かつてないほどの量の情報が簡単に手に入るようになったけど、同時に、かつてないほど信憑性の担保が危うい時代でもあるし、これまで以上にリテラシーが求められる時代と言える気がするし、このレベルで「わかった気に」なって満足しちゃいがちな懸念もある。それをいかにして第 2 のレベルに導くのか、フィジカルに自分の血肉にするのかが大事だし、それを続けないと第 3 のレベルなんてありえないな、と。
でも、同時に、第 3 のレベルって、言い換えれば「理屈じゃないレベルで」ってことだと思うので、本来誰でも持ってて、けっこう大事にしなきゃいけない感覚なのに、とかく数値化されたつまんないデータなんかに押しやられて、軽視されがちな部分でもあると思うので、そういう意味でも常に自覚的であるようにしないと、なんてことも思う。つまり、「情報」や「知識」は「理解」と対立するものでもなければ、違うものでもなくて、いかに有機的に活かせるか、ってことなのかな。これは、すごく大事なハナシだと思う。
われわれはどうあがいても自然の一員でしかありません。自分たちをどう定義づけ、いかに自然から遊離しようとしても、われわれの生命の大いなる息のほんの一部にすぎないのです。ただし、人類は今、自然界に対して、最後には自己破滅に通じかねない破滅的な行為に出られる選択を手にしています。土地に対して行い、海に対して行うことは…、自然に対して行っていることに他ならないと思います。
<中略>
古代ハワイ人は、これを遠い昔から理解していました。彼らは、星々や大宇宙といった無限大の世界から海水の一滴にいたるまで、自分たちが周囲の世界のあらゆる部分と結びついていると信じていました。そして、破壊行為であれ思いやりに満ちた行いであれ、世界の中のある場所に対してすることは大きな生命の一部である自分たちに、必ずはね返ってくることを理解していたのです。
これはまさにジェームズ・ラヴロックのガイア理論や『地球交響曲』に通じる部分だと思うけど、やっぱりこうことが体感的にわかるようになるんだろうな、なんて思ったりもするし、安っぽく使われる「エコ」とか、胡散臭い二酸化炭素軽減至上主義やキャップ & トレードなんかよりよっぽどシックリくる。
要するに、ナイノアは大海原を渡る航海師であると同時に、広大な自己の内面も旅をしている旅人であり、哲学家だってことなんだろう。そういえば、同じくマウに師事してる石川直樹も NHK の『視点・論点』(YouTube で動画も見れる)で似たようなことを言ってたけど。
『屋久島発 地球感覚、』のレビューでも書いたけど、星川氏に関しては、興味のある問題やテーマに関してわりとニアミスすることが多いんだけど、結構引っかかる部分も多くて(興味のある問題やテーマが近いからこそ、細かいところまで気になる、って側面もある)、決して諸手を上げて賛同しようと思う感じじゃないんだけど、この本に関しては、素直にすごく楽しめてたし、諸手を上げてもいい感じ。すごく読みやすかったし、内容も充実してるし、読後感もすごくいい。『星の航海術をもとめて』は外人の著者で、外人の著書特有の読みにくさみたいなのがある(内容は詳しいけど)し、『ホクレア号について語ろう! 』はムックなんで機能が違うし。これが絶版なのはすごくもったいないし、復刊ドットコムに取り上げられているのはよくわかる。
最後に、この『星の航海師』に載ってたナイノアに関するちょっと興味深いハナシを。ハンク・ウェセルマンって人類学者が、自分が自然発生的に体験した未来へのタイムトリップという「実話」に基づいて 5000 年後の世界を描いた『スピリチュアル・ウォーカー』って本があるらしいだけど、この中にナイノアだと思われる人物が出てくるんだとか。どういうことなのかよくわからない、ある種のパラレル・ワールドなんだけど、ちょっと変化球な副読本としては面白いかな、と。これもそのうち読んでみないと。
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