デヴィッド・リー / ルーク・ハーディング 著
月沢 李歌子・島田 楓子 訳 (講談社) ★★★★☆
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2007 年にイラク駐留アメリカ軍ヘリコプターがイラク市民・ロイターの記者を銃撃・殺傷した様子が映っている動画、いわゆる 'アパッチ・ヴィデオ' を 2010 年 4 月に公開したこと一躍、世界中の注目を集め、その後のアメリカの外交公電の公開や逮捕劇など、瞬く間に世界情勢に大きな影響を与える存在となったウィキリークス(WikiLeaks)とその創設者のジュリアン・アサンジ(Julian Assange)について、ウィキリークスともっとも親密な(でも、決して馴れ合いではない)関係を築いてきたイギリスの新聞『ガーディアン(The Guardian)』紙の記者が綴ったモノで、出版は原著("WikiLeaks: Inside Julian Assange's War on Secrecy")・訳書ともに 2011 年。今年に入ってからたくさん出版されてるウィキリークス関連の書籍のひとつってことになる。
最大のポイントは、著者が他のメディアに先んじてウィキリークスと協力体制を築いてた『ガーディアン』の記者である点。当然、他メディアでは知り得ないような記述が多くて読み応えは十分。アサンジの生い立ちやキャラクターから始まって、ウィキリークスの設立過程や一連の 'アパッチ・ヴィデオ' 〜 'ケーブル・ゲート' と呼ばれるアメリカ外交公電の公開〜逮捕劇に至るまでの流れをカヴァーしつつ、ウィキリークスが果たした役割や課題、'ウィキリークス以後' の世界でのメディア・個人の在り方みたいな部分まで触れられているんで、バランス良く概要を掴むのにももってこい。読み物としても適度に客観的でありながら、著者(たち)自身がプレーヤーでもあるので、適度にドラマチックに、'読ませる' 感じにまとまってて、決して軽いわけじゃないんだけど、思いの外、すんなりと読めちゃった印象かな。読み物として普通に面白いというか。
著者は '『ガーディアン』特命取材チーム' って表記になってるんだけど(原題では単に 'THE GUARDIAN')、『ガーディアン』ってのは 1821 年にマンチェスターで創刊された新聞。イギリスではもっとも権威がある新聞のひとつとして認識されてて、スタンスは中道左派・リベラルってことになってるんだとか。まぁ、正直言うと、イギリスって新聞=タブロイド紙の印象が強かったんで(ニュース・スタンドなんか下世話なタブロイド紙ばっかりだし)、個人的には今回のウィキリークスの件があるまで、あまりキチンと認識してなかったんだけど。デヴィッド・リーとルーク・ハーディングの 2 人はそれぞれかなりのキャリアを持ったベテラン記者、それも、良くも悪くも昔気質の新聞記者って感じらしく、ある意味、ベタな視線だからこそ、一連の事件の顛末とかウィキリークスならではの特徴とかアサンジのエキセントリックなキャラクターを浮き彫りにできてる感じ。
前半では、'アパッチ・ヴィデオ' をリークして今でもアメリカ軍に(かなり非人道的な環境下で)囚われてる技術兵のブラッドリー・マニングについて、どのような経緯でリークするに至ったかが語られてるんだけど、まずビックリしたのはアメリカ軍の情報管理の杜撰さ。イラクに赴任して情報分析の任務に就いた当時 22 歳のマニングは着任初日に最高機密のセキュリティの甘さに戸惑ったんだとか。システム以前に、物理的・技術的なレベルとは別の次元の、基地を覆い尽くす 'アメリカ軍の文化(カルチャー)' として、セキュリティの意識が脆弱すぎる、と。'アパッチ・ヴィデオ' を見つけたマニングは、レディー・ガガの曲を焼いた CDRW を持ち込んで、いつものようにそれをコンピュータに挿れて、イヤホンをしてレディー・ガガの曲を小さな声で口ずさみながらオーディオ・ファイルを消して、リークするためのデータをコピーして持ち出したんだとか。まぁ、CDRW なんて久しく聞いてもいなかったメディアがあの歴史的なリークに使われてたのも驚きだけど、任務中に口ずさみながらイヤホンで音楽を聴いていられて、持ち込まれた私物の管理もされてない杜撰な情報管理体制には呆れる限り。
マニング自身はゲイで、かなりピュアなメンタリティのハッカーだったこともあって、そんなアメリカ軍のカルチャーの中でかなり鬱屈した心情になってたらしい。後に、逮捕の直接的な原因になるチャットの中ではこんなことを言ってる。
もうウィキリークスには送った。次に何が起こるかは神のみぞ知るだ。世界中で意見交換や討論や改革が起こるといいな。そうじゃなければ人類はもう終わりだ。何も起こらなければ、こんな社会はもうどうなってもいいよ。でも、ヘリのヴィデオに対する人々の反応で僕は大きな希望を持った…CNN の i レポートには圧倒された。ツイートも激増した。ヴィデオを観た人は何かが間違っていることに気付いたんだ。僕は誰であれ、真実を知ってほしいと思っている。そうでなければ、国民として情報にもとづいた判断が出来ない。知らなかったことを後悔するようになる。それとも僕は、単なる世間知らずの馬鹿な若造なんだろうか。
マニングが行動を起こそうとしたキッカケは、政府を批判する学術論文(良質な政治批判だったらしい)を反政府文書だとして 15 人の容疑者をイラク連邦警察が拘留したことに協力させられた(その捜査に協力させられた)ときだったらしく、やはり、そういうことは日常茶飯事らしい。「情報は自由であるべきだ」って信じるピュアリストのマニングがそんな中に放り込まれたらどんな葛藤を抱えていたか、しかも「ドント・アスク / ドント・テル」政策(1993 年にクリントン政権が打ち出した軍内部の同性愛者に関する方針で、「入隊志願者に同性愛であるか質してはならず、同性愛者であっても公言してはならない」というもの)下のアメリカ軍でどういう心情だったかは容易に想像ができる。
あと、やっぱり、強く感じられるのは、システムとかテクノロジーってのは、あくまでも人間に使われてナンボだし、使う人間の意識とかリテラシー次第でどうにでもなっちゃうものなんだっていう当たり前のこと。もっとも管理が行き届いていそうな軍ですらこのレベルで、しかもコイツらが世界中で好き勝手に戦争してるって考えるとゾッとする。
まぁ、ピュアっていえば、アサンジ自身も相当ピュアっていうか、ある種、ハッキング原理主義的な印象。だからこそ、当初はウィキ(誰もが加筆・修正・編集・削除できるウェブの仕組み)のシステムでウィキリークスを運営できると思ったんだろうし、その後のシステムを変更したり、既存メディアとの協力したりってのはある種の妥協だったんだろうし。まぁ、そのピュアさというか青さみたいなところも、ちょっと憎めないんだけど。
そうは言っても、やっぱり子供っぽいところとか、極端にエキセントリックなところがある点も否定はできない。例えば、既存メディアとの間で問題になり、結局は一定レベルの譲歩をした '編集'、つまり、情報が公開されることによって危害が及ぶ危険性のある人物(主に情報提供者等)の名前等を伏せるかどうかについてのアサンジの発言。「だって、情報屋なんだよ。殺されたとしても、いずれそうなるとわかっていたはずさ。当然のことじゃないか」って言い放ったんだとか。『ガーディアン』の記者は「彼に対する個人的な感情を差し引いても、やはりおかしいと思う。元を正せば、やはり彼はコンピュータ・ハッカーでしかないんだ。'すべての情報は公開されるべきであり、すべての情報は善である' という、きわめて単純化したイデオロギーから始まっている」なんて言ってるし。
あと、その後のロック・スター的な振る舞いとか、トリック・スター的な行動を見ると、ウィキリークス運営のためにスポークスマンになる必要があったって面は差し引いて見ても、やっぱり本人の気質としてエキセントリックな目立ちたがり屋なんだなって感じもするし。この辺がアサンジの一筋縄ではいかないところというか、なかなか掴みどころがない印象は変わらないかな。
アサンジは情報化社会の救世主(メシア)なのか。それともサイバー・テロリストなのだろうか。自由の戦士か、はたまた反社会的な人間か。有徳な活動家なのか、あるいは、思い込みの激しいナルシストか。
第 1 章のわりと最初のほうにこんな記述がある。一般的にはよく言われがちっていうか、物事を無闇に善悪二元論的に単純化したがる風潮の典型的なチープな表現だけど、まぁ、もちろん、本質はそんな単純であるはずはないわけで、どっちでもありどっちでもないのが正解なんだと思うけど、だからこそ、慎重に読み解いていく必要がある。もちろん、わざわざこんなことを書いてるのは確信犯的にわざとやってることなんだけど。出発点の問題提起として。
まぁ、右の写真を見ての通り、ウィキリークスを巡る一連の出来事ととか、ウィキリークスの及ぼす影響や変化について考える上で、押さえておくべきポイントは多いし、上のほうでも書いたけど、読み物として普通に面白い。これからのメディアとか社会の在り方についての興味深い示唆も多いし。
例えば、いわゆるケーブル・ゲートで明らかになったことで気になったことのひとつに、公電自体は本物でも、書いてある内容が本物とは限らないってことがある。具体的には、外交官が自分のキャリアを高めるためには「中身のない '知人' とのランチでも面白おかしい話に仕立て上げられる」ことくらい、平気であり得るってこと(っつうか、実際にあった)。まぁ、あらためて考えてみれば当たり前だけど、ついつい忘れちゃいがちな、でも、すごく大事なことのひとつだし、メチャメチャわかりやすいサンプルだったりする。
まぁ、他にも、ケーブルゲートに日本のメディアがまったく含まれてない事実はもっともっと重要視されなきゃいけない(けど、そんな気配はまったくない)こととか、ケーブルゲートは民主主義が完全に機能していなかったり、言論の自由がない国でこそ歓迎された(ってことは、日本はそれ以下ってことか?)こととか、いろいろ示唆に富んだポイントは多かった。
「素顔で語れば、人はもっとも本音から遠ざかる。仮面を与えれば真実を語るだろう」
ー オスカー・ワイルド
本書にはこんな言葉が引用されてるんだけど、まぁ、まさにウィキリークスの起こした現象にピッタリ。たぶん、ジュリアン・アサンジはピュアリストだから、本当はウィキリークスなんか要らない社会を理想としてるんだろうけど(だって「情報は自由であるべきだ」って思想は根本的には内部告発者保護と矛盾するし。内部告発者の「情報」は「自由であるべき」じゃないの? って)、現状では、そうした理想はもちろん実現できてなくて、しかも、すぐには変革できそうになくて、その前提の中で強大な権力を監視・告発するためにウィキリークスって「仮面」が必要だってことなんだろうな、と。
たぶん、「ウィキリークスを巡る一連の出来事」と「ウィキリークスが及ぼす影響や変化」ってのは、実は分けて考える必要があって、前者は具体的な事例、後者は抽象的な '流れ' みたいなモノだと思うんだけど、そのどちらを考える上でも、なかなか読み応えがある一冊だったのは間違いない。
ちなみに、公開された公電の英語版は PDF ファイルで講談社のサイトに公開されてる。どうせなら訳せばいいのにとか思いつつも、いい傾向ではある。
* * *
ここから先は、直接、『ウィキリークス アサンジの戦争』とは関係ないけど、「ウィキリークスを巡る一連の出来事」と「ウィキリークスが及ぼす影響や変化」の後者について。ちょっといろいろと思うところがあるんで、もちろん、明確な結論は出てないけど(そんな簡単な問題じゃないし)、現時点でのメモとして。
ウィキリークスについては、前に『日本人が知らないウィキリークス』ってライトな新書ををレヴューしてて、そのレヴューの中で、
個人的にはウィキリークスは断然支持。ゲリラ戦術の一種だと思ってるんで、そういう意味では、革命との共通点を見いだす考え方はしっくりくる。書き出すと 長くなるし、論理的な裏付けがまだ足りてない気もするんでやめとくけど、ポイントは「信頼できる不特定多数のネットワーク」かな。コレ、すごく重要。 ジャーナリズムとかメディアとっていう小さな枠で見るべきハナシじゃない。厳密には「ウィキリークスは」じゃなくて、「ウィキリークス的なモノは」ってこ とだけど。いろんなことに応用可能なアイデアだし、すごく大事な考え方だと思うんで。すごく面白いし、ワクワクする。
って書いてるんだけど、基本的な印象は変化ナシ。諸手を挙げて 100% 賛成かっていわれると、決してそうとは言い切れないところがある(特に、現在のウィキリークスって組織については。ジュリアン・アサンジのパーソナリティも含めて)けど、ただ、ウィキリークスの存在意義に関しては疑う余地はない。
厳密にいうと、(仮に何かの理由で現在のウィキリークスって組織が上手く運営できなくなったり、逆に暴走してトンチンカンなことになったりしたとしても)、ウィキリークスが実証して見せた方法論の持つパワー、簡単に言っちゃうと 'ウィキリークス的なモノ' の意義と可能性であり、ウィキリークスの果たした功績の大きさ、ってことになるのかな。こんな書き方をすると、ウィキリークス自体がもう役割は終わったとか、これから難しい状況に追い込まれたりするみたいな印象を持たれるかもしれないけど、決してそういうことではなく、仮にウィキリークスがこれで終わっても、また、逆にこれは単なる始まりで、今後、ウィキリークスがどんどん重要度を高めていくにしても、ウィキリークスが設立から現時点までの間で果たしたことだけで十分に意味があり、評価に値するってこと。
だって、'ウィキリークス的なモノ' のパワーと可能性を見せつけちゃったんだから。それこそ、情報・国家・メディア等、近現代社会の基盤の部分を形成する要素の在り方について、その根本を揺るがし、再考・再定義・再構築をせざるを得ないってレベルで。
個人的にキモだと思うのは、やっぱり 'ウィキリークス的なモノ' の根底にあるハッカーイズムかな。「ナゾのハッキング集団」とか言われがちなアノニマスなんかも含めて。特にアノニマス的な組織(とすら呼べないと思うけど)の在り方ってすごく現代的だし、でも、同時に、すごく古典的というか、本来、組織や集団があるべきプリミティヴで理想的な在り方だとも思うし。それこそ、最近だと、これまた、スゲェ誤解されてるっぽいアル・カイダにも似てると思うし、それこそ、チェ・ゲバラが『ゲリラ戦争』で述べてたゲリラの在り方なんかにも通じると思うし。
ハッカーイズムを知るためには、当然、1960 年代頃のアメリカ西海岸を中心としたヒッピー・カルチャー等のカウンター・カルチャー的な部分をキチンと抑えなきゃいけないんだけど、どうも、その辺の認識がイマイチ軽視されてる感じがする。特に日本では。でも、その辺の感覚抜きで 'ウィキリークス的なモノ' とかウィキリークス以後のことを考えるなんてナンセンスだし、そもそも不可能だし。この辺はもうちょっと掘っといていいポイントかな、個人的には。ジャーナリズムとかメディアとっていう小さな枠じゃなくて、社会とか文化とか、そういうレベルで。かなり手強い大物だけど。
『ウィキリークス アサンジの戦争』
『ガーディアン』特命取材チーム 著
月沢 李歌子・島田 楓子 訳 (講談社) ★★★★☆
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