2009/03/03

Joga Bonito.

ブラジルのホモ・ルーデンス 今福 龍太 著(月曜社) 

最近の 3 エントリー(ソウル・ジャズのヤツジャイルスのヤツと "Black Rio")でブラジル音楽のコンピレーションばかり続けて取り上げてたのは、実はこの本を読んでたから。やっぱりブラジルの本を読む時の BGM はブラジル音楽だろ、という、至極真っ当且つ単純(単細胞?)な理由。こういうバカっぽい感覚は、わりと正しかったりするんで。

この本自体にも著者にも何の予備知識もなかったんだけど、書店で見かけた瞬間にピンときた。本でもレコードでもそういう感覚ってあると思うんだけど、まさにドンピシャリな感じだった。だって、タイトルが「ブラジルのホモ・ルーデンス」。「ブラジル」と「ホモ・ルーデンス」。こんな単語をふたつ並べられた時点で勝負あり。読まざるを得ないというか、もう、すっかりしてやられた感じ。


「ブラジル」は言うまでもなくブラジルのことなんで説明不要だと思うけど、「ホモ・ルーデンス」ってはそれほど馴染みがある単語じゃない。でも、個人的にはすごく好きな言葉。この「ホモ・ルーデンス」って言葉は文化史家のヨハン・ホイジンガが「ヒト」という生物に与えた新たな学名で、彼は 1938 年に「遊びは文化よりも古い」っていう大胆な書き出しではじまる著書『ホモ・ルーデンス』で「ヒト」は「知る人」という意味のホモ・サピエンスではなく、「遊ぶ人」という意味のホモ・ルーデンスであると説いた。けっこう難解な本なんで噛み砕くのが難しいんだけど、あえて乱暴に噛み砕いちゃうと「遊びこそ、人間を人間足らしめてる根源的な特徴であり、遊びの要素が減退することは人間性が減退することだ」みたいな感じかな。要するに、「人間は遊ぶ」んじゃなくて「遊ぶからこそ人間なんだ(遊ばない人間なんてもはや人間じゃない)」みたいなことかな、と。

あるソフトウェアの開発を手伝ってた時、そのコンセプトの部分にすごくインスピレーションを与えてくれた一冊 / 言葉(ちなみに、この本と同じくらい大きなインスピレーションを与えてくれたのはレゴ。なんつっても、'LEGO' ってのはデンマーク語の '
leg godt' を足した言葉で、「よく遊べ」って意味だからなんだけど、今読んでも、というか、いろいろ世知辛く、つまんない正論を振り翳すヤツが多い今こそ、すごく大切なことをいろいろと示唆してる気がする。

前振りが長くなっちゃったけど、
「ブラジル」と「ホモ・ルーデンス」ってふたつの単語は、一見無関係なようで、実はビビッと来ちゃうというか、つながるような、なんか不思議な関係にある(ように、少なくとも個人的には思える)言葉で、それを小細工抜きに並べられちゃったんで、もう、俄然興味が出てきた、と。しかも、ヨハン・ホイジンガはオランダ人。ブラジルは、言わずと知れた、素晴らしいフットボーラーと素晴らしい音楽と素晴らしい素晴らしい格闘家を輩出してきた奇跡のような国だけど、一方のオランダも、前にワーク・シェアリングのことを取り上げたけど、風車とチューリップと大麻と格闘技とトータル・フットボールの国だったりして、奇しくも格闘技とサッカーってジャンルで、最も強く美しいスタイルで世界を魅了してきたって共通点もあったりするんで。本書のサブ・タイトルには「サッカー批評原論」って付いてて、実はサッカーについて述べてる本だったりするんだけど、全然そんなことには気付かずに読むことにしてた。サッカーのハナシ云々を抜きにして興味津々だったから。

ブラジル:人間の下半身のゆらぎとボールの偶然の運動性とのあいだにひとつの美学を打ち立てようとする、ある精神共同体の名。あらゆる固定的イデオロギーや規則はこの符牒を旗印として戴くことで相対化され、無化される。南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない。

「ブラジル」をこんな風に定義することから始まる本書の著者、今福龍太氏は文化人類学者・批評家で、本書は季刊誌『サッカー批評』に掲載された記事をベースに 2008 年に出版されたモノ。よくよく思い出してみたら、『サッカー批評』の記事を読んだことはあったし、『サンパウロへのサウダージ』や『クレオール主義』なんかも読んでみたいと思ってたので、そういう意味では、たまたまこの本がキッカケだっただけで、出会うべくして出会ったような気もする。こうして、まとめて読むと感じ方も違うし。ちなみに、表紙の写真は森山大道氏がサン・パウロで撮ったもの。その写真も含めて、シンプルながら深みを感じさせる趣きのある装丁デザインはなかなかクール。

内容は、著者が「フチボールへの愛がブラジル人の魂のもっとも深い部分で彼らの日常的な感情の統合を創りだしている」と語ってるように、ブラジル・サッカーを中心に据えながら、「サッカー批評原論」というサブ・タイトルの通り、単にピッチ上の出来事だけでなく、サッカー批評という行為自体の意味合いに言及しながら、なかなか刺激的で興味深いサッカー論を展開する。

サッカー批評とは、サッカーというものが成立する歴史的・社会的・文化的・政治的文脈へのトータルな批評行為であり、それはすなわち、サッカーに対峙する私たちひとりひとりの人間の生存条件への徹底した批判力をも含み込んだものでなければならない。私たちがサッカーをし、サッカーを見、サッカーについて語る現実と、社会のリアリティの生産とが、いかに深く、複雑にかかわり合っているのか、という批評意識こそ、サッカー批評のすべての出発点になるからだ。

サッカーという運動領域は本質的に近代スポーツの競技性をどこかで裏切ってゆく部分がある。勝敗による決着、ルールによるゲームの文法化、得点という数学的均質性の導入、国家による競技者や協議会の占有…。これらの近代スポーツとしてのサッカーが身につけた属性は、どこかで、サッカーの示す混沌とした原初的な運動性によって裏切られている。そしてサッカー自体が、原型的には、快楽とか気まぐれとか審美性とか遊戯性といった反近代的生産原理によって成立しているとすれば、サッカーの本質をえぐりだそうとする批評は、そのまま近代世界批判へと、みごとに接続されることになる。あえて大胆な言い方をすれば、近代世界に対して「サッカー」というもの自体がすでに「批評」的な構造を持っている、ということなのだ。つまりサッカーは、近代世界のメカニズムと無意識とを照らし出し、その欠陥を露呈させる、批評の武器そのものなのだ。

サッカー批評は、サッカーを対象化し、サッカーを語りつつ、まさにサッカー的な批判力をサッカーを成立させる政治的・社会的な文脈への批評へと展開していくことで、そのまま近代の「世界」自体を語り、批判することが可能となるからだ。現在、サッカー論を文化批評(カルチュラル・クリティーク)として行うときに要請される最低限の知的水準も、このあたりにある。サッカーを近代スポーツ競技の内部に囲い込むのではなく、近代世界とさまざまな乖離を示しつつも、近代国家原理によって巧みに占有されながら飼い馴らされ、そうした乖離を隠蔽されてきたサッカーの本性を、いま明るみに出すこと。いわば、近代国民国家原理のなかで構造化されてしまったサッカーを、より原初的な身体運動の原理によって救い出すこと。そのうえで、ひと思いに、近代世界そのものを思想的に解体してゆくこと…。「サッカー批評」が身につけるべきもっとも基本的な知的情熱は、ここにしかない。

以上の引用は、序論の中からいくつか、個人的に引っかかった部分をピックアップしてみたモノ。なかなか刺激的で、でも、単なる刺激物ではなく、すごく合点がいくというか、日頃、(たぶん)人並み以上に熱心にサッカー(とそれを取り巻くさまざまなモノ)に触れている中で数え切れないほど何度も、頻繁に感じてるもやもやした違和感にすごく近いことを、ズバッと言い表してて、とても気持ちいい。

個人的には、「本能」について論じてる部分がとてもシックリきた。

スポーツ選手の直感的な身体運動の冴えを単に動物的本能という形容によって納得するような用語法は、およそ「批評」という言説の水準をクリアしているとはいいがたい。スポーツにおいて、とりわけサッカーにおいて、「本能」とはいかなる概念としてありうるかを根底から問い直し、そのうえで「本能」という用語によって語るべき領域をどのように設定しうるかを考えてみることなしに、精緻な批評は成立しえないのである。

安易に濫用されがちな「本能」と言葉の使用をこう断じてるわけだけど、これはすごくシックリくるし、同じような印象は、個人的には「天才」や「神」といった単語の濫用にも強く感じる。なんとなく、何の考えも抵抗もなしに使われがちだけど、キチンと考えて使わないと、すごく意味が軽くなっちゃう危険な言葉。そういう言葉って、サッカーの世界にはすごく多いし、細かいハナシではあるけど、決して小さなハナシじゃない。そういう安直な表現がメディアで横行し、ファンだけでなく、選手たちにまで蔓延して、間違った理解を助長するような、静かでタチの悪い悪循環を生み出してるので。

ちなみに、著者は「本能」を、ホモ・ルーデンス』を引き合いに出しながら、以下のように述べている。

ホイジンガは、人間と動物の「遊び」への共通した原初的指向性述べつつも、それが生物種としての生得的な生理的反射作用(すなわち本能と呼ばれるようなもの)に由来するのではなく、それを超えた、本質的な快楽・エネルギー・緊張感・歓喜といったものをもたらすある心意的な作用にもとづくものであると断言する。遊びの本質をなすべきこの積極的原理は、「精神」と名づければいささか言い過ぎになり、これを「本能」と呼べば何も言わないに等しい、とホイジンガは述べているが、彼にとって「遊び」は物理的・身体的な力の純粋な作用(=本能)を超えた、ある種の精神作用の発露にもとづく「余剰」であり、生物学的な決定論が「本能」という領域に押し込めてきた行動様式のなかから切り離されるべきであり、ある超理論的な何かであった。

(中略)

ホイジンガはこう書いている。

「動物は遊ぶことができる。だから彼らはすでにその点で単なる機会仕掛け以上のものである。我々は遊び、かつ、遊ぶことを知っている。だから単なる理性的存在より以上のものである。なぜなら、遊びは非理性的なものであるから。」

何気なく書かれたように見えながら、これはとてつもなく過激な文章である。遊戯によって、動物は単なる「本能的」な行動原理に縛られた存在から脱してある種の文化的・社会的規範への接点を獲得する。さらに、自らが遊ぶことを「知る」人間は、その知識によって、自らが物理的な自然力の絶対的な支配の外に出る自由を持っていることを知り、そのことによって人間存在の非理性的側面に目覚める。したがって、動物と人間との間に「遊び」の認識において違いがあるとすれば、それはまさに、この「非理性」を実現しようとする自覚的な意志の存在という一点においてなのである。

「遊び」という行動領域の文化史的な発見は、こうしてホイジンガを、漠然とした「本能」という概念によって人間行動のある側面を意味づけ了解する慣習から、大きく認識論的に飛躍させ、深化させることになった。まさに身体文化の遊戯的な側面への注視によって、本能と知性を二分化し、自然と社会を峻別してきた旧来の思考の陥穽を飛び越え、環境と、記憶と、神経系と、行動プログラムと、さらには非理性の発動とが複雑にからみあいながら生みだされる「遊び」の豊かな消息と、それがもたらす根源的な「おもしろさ」の感覚へとホイジンガは遡行しようとしたのであった。

すっかり引用が長くなったけど、すごく的を得てるというか、シックリくる。観るにしてもやるにしてもそうだけど、なんでサッカーが面白いかって、バカバカしいことを真剣に理屈抜きでやってるからなわけで。つまるところ。やってみればわかるけど、いいオトナが、いとも簡単にコケるからね、サッカーをしてると。今時、日常生活の中でコケることなんて滅多にないにも関わらず。でも、考えてみれば当たり前のハナシで。人間は 2 本の足でバランスを取って身体を支えてるのに、その足を(一時的に地面から離して)使ってボールを扱うなんて、バランスを崩して当たり前だし、そもそもナンセンス以外の何物でもないわけで。そんなナンセンスで意味不明なことをなんでやるのかっていうと、面白いから以外の何物でもなく、その面白さの根源はナンセンスで意味不明なところにあったりする。そういう部分こそ「遊び」の「遊び」たる最大の由縁だし。何でもないことって言っちゃえば何でもないことで、当たり前って言っちゃえば、至極当たり前なハナシなんだけど、実はすごく大切で、しかも、軽視されて忘れられがちなことだと思うので。

最初のほうに「サッカーのハナシ云々を抜きにして興味津々だったから」って書いたけど、実は、サッカー関係の本とか雑誌とかを読むこと(というか、読んで頷いたり、共感したりすること)が以前に比べてすごく減ってて、それは何故かっていうと、こういう部分に起因してるのかな、なんて思ったり。本質的・根源的な部分を蔑ろにして、小手先の議論だけを闇雲に積み重ねてる、「飲み屋の駄話」みたいなサッカー論を垂れ流してるだけで。特に、TV で観るだけだったり、机上のロジックだけで将棋やチェスのように考えるだけだったり、「ゲームでサッカーを学んだ」なんて恥ずかし気もなくのたまう輩が多い昨今は、その傾向が顕著な気がするし。気心知れた相手と顔をつきあわせてなら、それはそれで面白いし、それもサッカー文化の一部だと思うけど、そんなものは「解説」でも「批評」でもないわけで。

この「本能」の部分に限らず、個別に取り上げるとキリがないほどいろいろ示唆に富んでる部分が多く、引用した部分のような感じで、ガンガンと言葉で攻め込んでくる。例えば、イングランドを起源とするフットボールが世界に植民地主義的・帝国主義的に伝播していったとするサッカーの通説的な歴史観を盲目的に肯定することが、いわゆる「サッカー的な」身体的所作の本質の理解を妨げる危険性を孕んでいることだったり。サッカーが西洋の身体帝国主義の装置として側面を持ちながら、同時に、そのルールの簡潔性、下半身という混沌を含み込んだ身体器官への依存等といった理由によって、植民地主義のイデオロギーをスポーツを媒介として世界各地に浸透させていく以上に、人間の身体に普遍的に内在していた流動的な運動本能のほうを近代において引き出すことになったという、デジタル的な二分法に変換しにくいサッカーならではの、ある意味で皮肉で、ある意味ではサッカーの魅力そのものを表してるようなハナシだったり。スポーツの世界の常套句である「闘争本能」の闘争の対象は相手ではなく「物理的空間」だっていう中井正一の論だったり。ブラジル人ではないにも関わらず、ある意味でブラジル人以上にサッカーのサッカーたる部分を体現する存在であるマラドーナと、彼が吊るし上げられたドーピングの問題に孕む浅はかさ(特に「自然」という神話についての考察とか「陶酔」についてとか。この「陶酔」についての論考は、広い意味での麻薬に関する議論としても一読の価値あり)だったり。ブラジルのフチボールのゲームを統べる統合的なリズム感や心的状態の抑揚感についてだったり、ブラジルにおけるカーニヴァルとギャンブルについてだったり、ジーコが口にした「神」って言葉の意味(間違っても、「ジーコ=神」ってハナシではない)と「神はブラジル人だ(Deus é brasileiro)」っていう最高な格言だったり、寺山修司のサッカー観だったり、マラドーナの語る「ボールへの敬意」だったり。拾いどころ満載というか、個人的にはすごく興味深い点ばかり。

あと、国家という枠組みを想像するための装置として機能するサッカーって側面もなかなか興味深い。「異なった社会階層、民族性、人種、宗教に属する人々が共有することのできる何かを与えることによって、国民統合に貢献した」とジャネット・リーヴァーが表現するブラジルはその傾向が顕著で、すごく特徴的に現れてるし、それはブラジル人の、あの独特な愛国心にも大いに関係ありそうだし。「ブラジル人の、あの独特な愛国心」って、なかなか言葉で表現しにくい部分なんだけど。幸か不幸か(どっちもだと思うけど)、現代の日本人にとって「愛国心」ってなかなかリアリティを持ちにくい言葉だし、でも、例えば、アメリカ人の星条旗に対する信念・忠誠心みたいなちょっと頭でっかちで暑苦しい感じの愛国心とか、フランスみたいなちょっとスノッブな感じとか、イギリスみたいなシニカルな感じとかとも違うし、韓国とかとも違う、すごく独特なモノを感じるんで。日常生活の中にあれだけ国旗が自然に溢れてて、いろいろと問題もあるし文句や不満もあるんだけど、でも、みんな、目をキラキラさせて「ブラジルっていいところだろ?」って言ってくるようなピュアな「愛」。そんな感覚を生みだす源泉のひとつとしてのサッカーって部分もそうだし、それも含めてのブラジルの魅力やパワーについてって意味でも、なかなか深いハナシ。

「個人技」についても興味深い。日本のサッカー論ではすっかり常套句になってる、いわゆる「組織的なプレー」の対義語として使われる「個人技」について、筆者はこんなことを言ってる。

「個人技」というときの「個人」とは、それほどに身勝手で気まぐれで安定を欠いた主体なのだろうか? 一方で、「組織」なるものの構築を言挙することで、本当にチームとしての集団的プレーの結束力は強化されるのだろうか? サッカーを論評する時の、個人と組織、個人と集団というこの紋切り型の二項対立のたてかたに、私は大きな違和感を感じていたのである。

(中略)

個人技とは、けっして一人のプレーヤーの個人的特性として他者の身体から峻別される単独の技量ではなく、むしろ、厚みのあるサッカー文化とサッカーへの継続的情熱が継承してきた、集団的身体性の時間を隔てての顕れにほかならない。すなわち究極の個人技とは、集団の伝承なのだ。

この指摘もすごく同感だし、今まで、なんとなく感じてたことをズバリと言い当ててくれてる感じ。なんでブラジル人はあれほどまでに跨ぐのか。なんでメッシのドリブルはマラドーナそっくりなのか。それって、そういうことなんだよね、って。それこそが強さだし、文化だし。そういえば、以前、サッカー解説者の風間八宏氏に取材したときに、ブンデスリーガ経験者の風間氏は、ドイツ人のサッカー(観)を「ゴール前にしか興味がない」と評してた。「だから、いい FW、そしていい DF と GK が多いんだ」と。イタリア人の友人は「カルチョは騎士道だ。自分の城をガッチリと堅守し、スーパーな能力を持った騎士(ナイト)が、同じくガッチリと守りを固めた敵の城に勇敢に挑む。そこにカタルシスがあるんだ」と。カンプ・ノウではつなげるボールをクリアするとブーイングされるし、イングランド人は激しくフェアなタックルに立ち上がって拍手を送る。そういえば、ロンドンで友だちのサッカーに混ぜてもらった時、何人か集まると、日本だったらリフティングでも始めそうなところだけど、ヤツらは遠くに離れてロング・キックはバスバス蹴り合ってた(しかも、どいつもこいつもいいボールを蹴る)。つまり、そういうことだ。そこから培われるモノが文化だし、力になる。そして、その根源にあるのは、決して打算ではなく、非理性的で根源的な悦び。その足下をキチンと見てないと、目の前の結果に振り回されて、机上で空論をこねくり回すようになる。

だいぶ長くなった(そして、思いの外、まとまりがない)けど、最後に、本書で引用されてるプラハ生まれのユダヤ人思想家、ヴィレム・フルッサーの『ブラジル人の現象学』の言葉を引用しておこう。すごく印象的なので。

ヨーロッパでは、サッカーがプロレタリアに開かれた「疎外からの脱出口」としての役割を超えることはまずない。だがここブラジルでは、人間性の内的な統合性を実現する通路としての役割をサッカーが持っている。あちらでは、サッカーは厳しい現実を忘れさせるために機能する。ここでは、サッカー自体が現実なのである。

社会的・経済的現実を何か別のもの、同じようにリアルで、しかも生存の構造において完全に異なった別種の現実に置き換えようとする人間。「ホモ・ルーデンス」は旧弊な現実ではなく、新しい現実を生きる。マルクスの語彙を借りれば、もはや経済に条件付けられることのない人間。あついはニーチェ流の語彙でいえば、事実よりアートの方が大切な人間。ブラジルには、生き尽くされた現実からの疎外によって、かえって別の現実が発見されるというプロセスが存在する。これが遊戯的な現実の発見である。このプロセスは、ブラジルにおいて「新しい人間」が生まれかけているという考えの根拠のひとつになるだろう。

フルッサーがブラジル人の中に見出した、西洋の人間性の限界を突き破るヴィジョンが、まるでゲバラが言った 'hombre nuevo' にも通じる「新しい人間」なのも興味深い。

個人的には、「国」という枠組みに縛られたスポーツの持つ求心力にはもう限界を感じてたりするんだけど、ブラジルは世界で数少ないその例外だと思うし、最初のほうで引用したブラジルの定義でも、著者が「南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない」って言ってるように、国境線の中に押し込められたつまんない考え方を軽く超えた感性が「ブラジル」にはある。そして、本書は「ブラジル」や「サッカー」について語りながら、決してそれだけを語ってるわけでもなく、いろいろなことに応用したりできるし、いろいろなところに派生したりもする。知的インスピレーションに富んでるし、あらためていろんなことを考えさせられるし、今後、ことあるごとに何度も読み返すことになりそうな予感がしてる。

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