2011/09/13

Being minimal.

『百年前の山を旅する』 服部 文祥 著 (東京新聞出版部) ★★★ 
 Link(s): Amazon.co.jp / Rakuten Books

タイトル(と表紙の写真)からわかる通り、21 世紀の今、あえて 100 年(以上)前の装備で、100 年(以上)前のルートで登山した様子や、その際の試行錯誤等を綴った書籍で、出版されたのは去年の 10 月。もともと『okugai』誌と『岳人』誌に掲載されていた記事をまとめたモノで、著者の服部文祥氏は 'サバイバル・シリーズ' と呼ばれる一連の書籍(Link: Amzn)でも知られてる。

たしか、『okugai』誌の 2009 年初夏号に掲載されてた「奥多摩・笹尾根縦走 100 年前の装備で山に入る」を読んでたのかな? その後、熱心に追いかけたわけじゃなかったんだけど、わりと印象深い内容だったんで、その延長線上で書かれたモノをまとめた書籍ってことであれば読んでおこうかな、と思って。

結論としては、読み物としてメチャメチャ面白いか? って言われるとちょっとビミョーだったりもするけど、コンセプト自体がすごく興味深いし、ひとつひとつの旅のストーリーも面白いし、いろいろと考えさせられる部分は多い。

イントロダクションに相当する「過去とシンクロする未来」って部分にはこんな言葉が綴られている。

近年、人間であることを清算して、ただ生命体として存在するのは、たとえ山の中であっても難しい。山に入ってさえ、さまざまな事柄が私に人間であることを強要する。たとえば、人だから登山道をはみ出してはいけない。人だからキャンプ指定地や山小屋以外で夜を過ごしてはいけない。トイレ以外で排泄するのはもってのほか。焚き火も食料調達も禁止。情報とルールが押しつけられ、そこから外れることは許されない。

登山とは、あるがままの大自然に自分から進入していき、そのままの環境に身をさらしたうえで、目標の山に登り、帰ってくることだ。自分の力ではできないことを、自らを高めることなしに、テクノロジーで解決してしまったらそれは体験ではない。環境というオリジナル・プレッシャーと生物の能力が均衡する点がその生物の「行動限界」となる。それが自然の法則であり、自然の法則に近いところで活動することが徒然の根源的な魅力なのだ。だから登山者はできる限り生身であるほうがいい。昔の山人のようにー。

コレが著者の基本的なスタンスってことになるのかな? この部分を読んで思い出したのはパタゴニア(Patagonia)の創業者のイヴォン・シュイナード(Yvon Chouinard)の「すべての装備を知恵に置き換えること」って言葉。この言葉を直接聞いた石川直樹氏が自身の書籍(Link: Amzn)のタイトルにしてたりするんだけど、そのイントロダクションで「何の道具も使わず、限りなく裸に近い状態で昇れるクライマーこそ究極のクライマーだ」的なイヴォンのパンチラインが紹介されてた(本自体が手元に見当たらないんで言葉遣いは正確じゃないけど)のが、個人的にはすごく印象的だった。クライミングやアウトドアに限らず、日々進歩するテクノロジーに囲まれた現代社会での生活全般に当て嵌まる気がして。ある種のミニマリズムというか、ミニマルなライフスタイル的な意味合いで、すごく示唆に富んでるな、と。

上に「21 世紀の今、あえて 100 年(以上)前の装備で、100 年(以上)前のルートで登山した」って書いたけど、100 年前ってのは 20 世紀初頭、明治 40 年代くらいなんだけど、実は江戸時代までの日本には、現代的な意味でのいわゆる '登山'、スポーツやレジャーや冒険としての登山ってのは存在しなくて(それはそれで長くなるテーマだから詳しくは触れないけど、一般的には、江戸時代以前の日本では '山' は宗教・信仰と結び付いた神聖な場所で、山に入るのはあくまでも山岳信仰的な意味合いだった。だから、女人禁制だったし)、ヨーロッパの 'アルピニズム' 的な意味での '登山' が日本に伝わってきたのも明治以降だったんで、100 年前ってのは、日本における現代的な意味での '登山'(信仰の一部ではなく、ヨーロッパのアルピニズム的な意味での登山)の黎明期だったってことになる。

基本的には、その頃の資料等を基に、なるべくその時代の状況を想定して同じルートを辿ってるんだけど、装備や食料等、技術や道具の面だけでなく、自分自身の思考や想像力も極力当時の人々に近づけようとしていることが大きな特徴って言えるのかな。

例えば、「奥多摩・笹尾根縦走 100 年前の装備で山に入る」では、日本の登山の大きな特徴である '縦走' ってスタイルのごく初期のトライアルを忠実に再現してる。ヨーロッパのアルピニズムの特徴のひとつは '高い山の頂上に登る' ことで、地形的な特徴もあって、基本的には「頂上まで登って下りてくる」ってスタイルなんだけど、山々が連なってる日本は「ひとつの山の頂上に登って下りてくる」ことだけじゃなく、尾根伝いに複数の山を巡る縦走に適してて、日本の登山の特徴であり魅力であるって言えると思うんだけど、「奥多摩・笹尾根縦走 100 年前の装備で山に入る」のベースになってる木暮理太郎と田部重治の 1909 年の登山は、雨具もテントも精密な地図も持ってなかったって無茶な部分も含めて(陸地測量部作成の地図が刊行され、一般的に手に入りやすくなったのは 1913 年らしい)、縦走のごく初期の記録と再現・検証してすごく興味深い。

巻頭に収録されてる「奥多摩・笹尾根縦走 100 年前の装備で山に入る」以外には、明治以降の沢登りや冬山登山だけではなく、本当に若狭湾から京都まで一昼夜で鯖を腐らせずに運ぶことができたのかを実際に検証しようとした「鯖街道を一昼夜で駆け抜ける」では明治以前の行程の再現を試みてたり、ごく初期のストーブを基にしてストーブ=火器の携帯と冒険の関係性を論じていたり、なかなか面白いトピックが多い。

まぁ、すべてをそのまま真似したりはもちろんできないけど、よりミニマルに、よりシンプルに、よりプリミティヴにって指向は基本的にすごく共感できるし、常に頭の片隅に置いておいて、何かをするとき・何処かへ行くとき・何か新しい道具を買うとき等に、ちょっと面白いヒントはたくさんあるって感じかな。トレッキングやアウトドアに限らず、すべての面に応用できる考え方だし。

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