2009/04/08

3 decades of futuristic vision.

機動戦士ガンダム DVD-BOX 1』『機動戦士ガンダム DVD-BOX 2 
 富野 由悠季 監督 (バンダイビジュアル) 

1979 年 4 月 7 日、『機動戦士ガンダム』の第 1 話「ガンダム大地に立つ!」が放映された。つまり、昨日でちょうど 30 周年を迎えたということ。

サンライズには 30 周年記念サイトがあったり、夏にはお台場に等身大のガンダムが降臨予定だったり、いろいろなイベントが予定されてるわけだけど、やっぱり、30 周年っていうのはひとつの節目だし、いろいろ感慨深かったりもするんで、あらためてレビューをするなんておこがましいけど、まぁ、触れないわけにもいかないだろう、と。映画版もいいけど、「ガンダム大地に立つ!」から 30 年ってことなんで、当然、対象アイテムは TV シリーズで。

言うまでもなく、『機動戦士ガンダム』っていえば、日本のアニメーションのクラシックであり、ひとつの巨大産業であり、福井晴敏の言葉を借りれば(言葉を借りて、拡大解釈すれば)日本男児にとって義務教育みたいなモノなわけで、個人的にも人格形成に大きな影響を受けた作品。基本的な概要はウィキペディアでも見てくれって感じだけど(まぁ、見るまでもなく知ってて当然なんんだけど。義務教育だから)、まぁ、一言で乱暴にいうとひとつのライフスタイルみたいなモノだな、と。つまり、ヒップ・ホップが単なる音楽のジャンルじゃなくて、DJ・ラップ・ブレイクダンス・グラフィティという 4 大要素から形成されるトータルなアート・フォームであり、ライフスタイルであるように、ガンダムは単なるアニメーションじゃなく、アート・フォームであり、哲学であり、思想であり、ライフスタイルだ、と。そうやってとらえないと本質は見えてこない。

まぁ、ご多分に漏れず、ファースト・コンタクトは再放送だったはずなんだけど、詳細は覚えてない。小学生だったし。たぶん、中〜高学年くらい。少ないお小遣いをはたいてプラモデルも買ったりはしたけど、実はそれほどハマったわけじゃなかった。どちらかっつうとストーリー自体のほうが好きだった。ガンダム好きは、細かく分類すると富野派・安彦派・大河原派に分けられると思うけど、そういう意味では富野派だった。でも、まだ家庭用ビデオデッキもそれほど普及してない時代に、小学生がオン・エアで観ただけ(雑誌とかで補完はしてたけど)だったんで、それほどキチンとわかってたわけじゃない。ただ、「なんか難しいこと言うなぁ(ちょっと、よくわかんないなぁ)」とか「みんな死んじゃうなぁ」とか思ってたくらいで。それからしばらくは再放送があれば観てはいたけど、部活とかで観れなかったりもしたし、それほど熱心に追いかけてたわけじゃなかった。

でも、その後のセカンド・コンタクトは衝撃的だった。今でも鮮明に覚えてる。大学の時に高校時代の友だちとみんなでスキーに行って、泊まった民宿でたまたま TV をつけたら地元のローカル局で再放送してて。しかも、それがが「宇宙要塞ア・バオア・クー」で。もちろん、翌日には「脱出」も観た。それで、もう、衝撃を受けちゃって。こんな難しいハナシだったのか、スゲェ哲学的なこと言ってるじゃん、って。不思議だったのは、子供の頃は全然理解できてなかったはずなのに、それでも無意識に覚えてて、しっかり刷り込まれてたこと。そのもやもやしたところに光がちょっぴり射したような感じで。だから、そこにいる間、スキーとか一緒に行った女の子のことなんかそっちのけで、ガンダムのハナシばっかしてた気がする。スキーなんかやんないで、とっとと帰ってレンタル・ビデオ屋に直行したい気分だった(この頃にはもうレンタル・ビデオ屋があった)。この時にガンダムのハナシにのってこない(ハナシが通じなかった)ヤツとは、その後のつきあいが疎遠になった気すらする。それくらい衝撃的で。

時間とエネルギーは有り余ってる大学生だけあって、帰ってきた後はもう、大変。ビデオは観直すは、古本屋で関係ありそうな本は片っ端から漁るはで。もちろん、心はすっかりジオン派で、それは今も変わってないし、今でも「ジオンっぽいか、連邦っぽいか」が価値判断基準になってたりするし。「そのほうが兵たちも喜びます」って即答できるクランプのようなオトナ(オトコ)になりたいって真剣に思ったし(っつうか、今でも思ってるし)。その他にも、実はアムロを一番ビビらせてたのはドズルだったこととか、スレッガーはなぜかガンダムにちゃん付けだったこととか、ザクはやられてもカッコイイこととか、いろいろツボを発見して。戦争とか歴史とか宇宙開発のことをいろいろ勉強したりもしたし。そして、もちろん、最大のナゾであり、人生のテーマでもあるニュー・タイプに関しても、あらためてメチャメチャ考えさせられて。ゲバラも似たようなこと言ってるとか、そんなことばっか考えてた。この段階で、ガンダムがすっかり血になり骨になり肉になった感じかな。まぁ、もうハタチくらいだったんで、ちょっと遅いんだけど、キャラクターから入る安彦派とメカニックから入る大河原派と比べて、ストーリーと世界観に魅かれる富野派は多分に頭でっかちになるし、どうしてもそれなりの分別とか知識が必要だったりするんで、仕方なかったかな、と。

それ以来、多少の波はあっても常に欠かすことのできないモノになったし、まぁ、乱暴なハナシ、『スター・ウォーズ』とか観ちゃいられない状態になっちゃったんだけど、次の大きな波が来たのは 20 周年となる 1999 年頃。厳密には 1997・1998 年かな。1997 年からドラムンベースの CD を日本に紹介する仕事をしててロンドンによく行ってたんだけど、そこで当時現地に留学してた某デザイナー(現在は日本で売れっ子だったりする)と日本から一緒に行ったデザイナー / ライター(というか、ガンダム仲間)とガンダムのハナシになって。曰く、「ドラムンベースはガンダムっぽい」と。メチャメチャ壮大で、フューチャリスティックで、ハイ・テクで、でも、同時にすごくヒューマンで、ソウルフルで。LTJ ブケムの "Music" とか 4 ヒーローの "Universal Love" とかゴールディーの "Inner City Life" とかメチャメチャ宇宙っぽいし、ニュー・タイプっぽいな、と。世界観がメチャメチャしっくりきた。現地の連中に英語字幕付きのビデオをダビングしてあげたりして。実際に何か具体的なカタチになったわけじゃないけど、インスピレーションにはなったんじゃないかな、と。今でもこのとき感じたイメージというか、見えたヴィジョンは間違ってないと思うし。

1998 年には、当時働いてた会社がたまたま映画版の販売権を持ってて、たまたま別の部署の知り合いが 20 周年のタイミングでビデオ 3 本セットのボックスを企画してて、それをちょこちょこと手伝わせてもらって(というか、口を出しただけだけど)。パッケージはプラモデルの箱のデザインを再現して、表 1 は迷彩柄のザク(大河原先生の書き下ろし!)。ガンダムのパッケージなのに表 1 がガンダムじゃなくてザクっていうありえない企画。言ってはみたものの、よく実現したなぁ、と。まぁ、今考えても正しかったと思うけど。そこから派生して、発売時には『bounce』誌の表紙を飾った(しかも大河原先生の書き下ろしデザート迷彩ゲルググ!)し、その原稿も書かせてもらったし。その後もちょこちょこガンダム関連の原稿を書かせてもらって、最終的には富野監督にインタビューまでさせてもらったし。基本的には有名な人に会ってもそれほど緊張しないんだけど、この時ばかりは話が別で。もう、ちょっと気を許すとただのファンになっちゃいそうで、必死だったのを覚えてる。やっぱり、人格形成期に大きな影響を受けた人っていうのは、何歳になっても絶対的な存在らしい。最後にはサインしてもらったし。小説版の『機動戦士ガンダム』の表紙に。仕事であった人にサインをもらったのもこの時だけかも。

もちろん、このときにどうしても聞きたかったのがニュー・タイプについて。そうしたら、富野監督曰く、「物事を誤解なく理解できる人のこと」なんて宣いやがって。ますますわからないくなったような、でも、それってエスパーでもスーパー・マンでも、先天的な才能でもなくて、ある意味誰でもなれるものだったりして。それでますますハマったっていうか、もう、離れられなくなっちゃったというか。やっぱり、目指すべきはニュー・タイプしかないな、と。もちろん、なれるかどうかしらないけど。

まぁ、思えば、それからさらに 10 年経ってるわけで、10 年間、絶えずニュー・タイプについて考え続けてるんだけど、やっぱり何だかわからないくて。だからこそ、面白いというか。今のメインは安彦先生の『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』と福井晴敏の『機動戦士ガンダム UC』と『機動戦士ガンダム MS IGLOO』シリーズなんだけど、やっぱり今でもいろいろ新鮮だし、メチャメチャ面白くて。歳を取れば取るだけ違うものが見えてくるし、いろんなことを知れば知るほど今まで気付かなかったことがわかってくるし。

ガンダムを単なるノスタルジアだとか、子供の頃に果たせなかった欲求を満たしてるだけだって誤解してる人もけっこう多いし、実際にそういう楽しみ方しかしてない人も多くて(ガンダム好きのくせにすごく連邦っぽい!)、それはそれで楽しいのもわかるけど、それだけじゃないのがガンダムなわけで。それだけじゃもったいない。だって、アート・フォームであり、哲学であり、思想であり、ライフスタイルなんだから。

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